同質性のこと2

同質性が前提としてあると、同質性がない人間が「それはなんだ?」と疑問を呈しても・盾突いても、返答が満足に帰ってこないことがあります。

「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」 「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
吾輩は猫である 夏目漱石

大和魂について吾輩は猫であるの中で触れられてるのですが、無かったらおかしいという同質性に担保された「大和魂が有っている」という最初に断定があると断定ゆえに説明が続かなくなってしまうのかなあ、と思ったりもします。同質性があることが前提だと説明が説明にならないというか。「吾輩は猫である」を読んでからずっと気になってて、いまでも上のような事例というのはどこにでもあるような気がしてて日露戦争の頃から変わってないのかもっていうのと、日本語って難しいし怖いよなあ、と思えるのです。塩ラーメンごま問題からかけ離れちまいましたが。