キツネ色(追記あり)

春はあけぼのようよう白くなりゆくやまぎは、っていう文章があります。きっと繰り返して書いてると思うのだけど、東京都民なので銀座あけぼのと秋葉原ヤマギワは知っていても朝陽の出るほうには4階建てのビル相当の上野の山以外の山はありませんからわけわかめです。想像するしかないのですが、初見したころの10代の想像力には限界があります。続けて、少し明かりて紫立ちたる雲の細くたなびきたる、ってかいてあって、色的にうっすらと想像すべき光景は補足されてなんとなく理解できてきます。春はあけぼのの文章のおそろしいところは「なにが好みか」は述べても「なぜそれが良いと思うか」という記述はありません。ほかにも、闇もなほ、とか、霜のいと白き、とか好み(と好みじゃない光景)を単にひたすら書いてるだけです。ひたすら理由のない好みを読まされて挙句に麩菓子…じゃねえ駄菓子…じゃねえ、をかしとか、ワロス…じゃねえわろしとか云われても困るよなあ、なんでこんなもの読まされなくちゃいけないの?と清少納言に軽い殺意を覚えていました。

これから書くことはあてずっぽうです。

朝帰りというものを平気でする年齢を過ぎて、ある時長居ができなくて当然東京なのでやまぎわではない朝焼けのはじまる頃の街の景色を泊めてもらった部屋の玄関からエレベーターホールまでの間に彼氏とちょっとだけ一緒に眺めたことがあって、特段朝焼けの色が好きな色でもないけど理屈抜きに悪くないなあ、と思うと同時にその経験から、春はあけぼのの文章はもしかして逢瀬のあとの誰かと一緒に見た景色なのだろうか、と考えるようになっています。一人で朝焼けの前の景色を眺めていいねとつぶやく光景というのは考えにくく誰かと一緒だとすればあの文章はなんとなく腑に落ちるのです。誰かと一緒に見た良かった記憶や楽しかった記憶に基づくものというのは理屈抜きに好意的になりはしないかということに気が付くと、闇もなほ、というのも、月明かりの下でこれから起こるかもしれぬことに期待してるのではないか、霜のいと白き、ってのもむちゃくちゃ寒い朝に眺めてるだけではなくて(からっ風が無いぶん楽だと思うのですが)その霜を踏んづけてきゃっきゃ遊んでいるのではないか、と解釈するようになりました。また「なぜそれが良いと思うか」について記述するより「理屈抜きに〇〇が好きなわたし」についてはたぶん今も昔も人は容易に記述できます。人って幸福な記憶に引きずられて好みを形成して、それに浸って他人に言いたくなる生き物なのではないか。そう考えるようになってからは「なんでこんなもの読まされなくちゃいけないの?」感と殺意はいくらか減っています。減ってますが会ったら後世の人間の何割かはあんたのおかげで苦労してる!くらいのことは言うかもしれません。

はてな今週のお題が「わたしの好きな色」なのですが、ここで朝焼けのはじまる頃の空の色、ようようしろくなりゆくやまぎは、と書けば文学的なのですが、わたしは清少納言への殺意が消えていないので、そうは書けません。むしろパン粉をつけた2人分のタラのフライの白い衣が揚げてゆく途中でキツネ色の染まってゆく時間の変化ほうが「いとをかし」というか趣深いとおもっていて、得意ではないのですが揚げ物のキツネ色は好きな色であったり。

[追記]

はてなブックマークをやってないのでこういうカタチで返信させてください。

花粉症で眠れなかったとかならいざ知らず、春の朝早く起きてひとりで東の空を眺めるだろうか、「をかし」というだろうか、という違和感がずっとぬぐえないのです。

でもって、男が女性のところへ行く妻問い婚であったことを踏まえて誰かと一緒に居た幸福な記憶込みなのではないか、という仮の解を持っているのですが、もし漢詩万葉集とかに春の朝はよかろうもん?と褒める趣旨のものがあってそれを私が知らないだけで、清少納言がそれらをなぞってるとするなら、私の仮の解は崩壊します。ですからあんまり信用なさらないでください。

つか、清少納言はなぜこんな文章を書いたのでしょう。殺意が湧いてきませんかね、湧いてこないかもですが。