海について不思議と思うこと

百人一首をテストで記憶しなければならないのにその百人一首は10代の私にとってわけのわかんないものがけっこうありました。歌人になるわけでもなく読解力や想像力が低いことがバレるとしても匿名なので痛くもかゆくもないので続けます。「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」ってのがあります。潮が引いても見えぬ石のように誰も知らぬ恋のおかげで袖が濡れ乾く暇がないのです、というような意味(のはず)なのですが、風雅に欠ける無骨な東男で海に縁がない多摩の人間にはそもそも潮干というのがぴんときませんでした。もちろん古語辞典を引けば引き潮ってかいてあります。でも家族で海水浴へ行ったことがなかったくらいなので潮の満ち引きというのを見たことなど無く当然拙い想像でしかなく、どういう現象なのかほんとはわからぬまま、容易に理解できない語句を含んだ短歌を選んだ藤原定家への殺意を抱きながら機械的に覚えてました。

話はいつものように横にすっ飛びます。

潮の満ち引きということがどういう現象かを理解したのは誘われて千葉の九十九里へ遊びに行ってからです。ボードを借りて波乗りの真似事をしてるうちに時間が経過して気が付くと砂浜が前よりすこし狭くなり波打ち際が移動してるのが理解でき、それらを目の当たりにすると藤原定家への殺意はいくらか軽減しています。

そのとき空には月があって、ああこれが満ち潮なのかと理解しました。月の重力が海面に作用して潮の満ち引きが起きるというのは理屈として知ってましたがいざ目の当たりにするとなんだか不思議だなと思っちまってます。(ええかっこしいなので潮の満ち引きに関心を持つきっかけとなった短歌や藤原定家への殺意を伏せながら)潮の満ち引きをはじめて見たこと+潮の満ち引きについて理解できたこと+でも不思議に思えたことを正直に告白するとその日の夜に「夜の海もみとこうか」と連れられて夜に海へ行くと、音は昼とたいして違わないんだけど海はもちろん青くなく暗闇の中に白い波がうっすら見えて同じものを観てるはずなのに光の有無でこうも見え方が違うのか、と書くとあたりまえのことなのですが、やはりそれも不思議だなと思っちまっています。恥かきついでにもう少し書くと波に乗ることを覚えてからに秋でも海水がなかなか冷えないことを経験しています。海水は大気より比熱が高いことを知り海水は大気に比べてあたたまりにくく冷めにくいという理屈をあたまでは理解でき、夏場に温められた海水が秋のはじめでもまた温かいということについて理屈はわかりつつも、不思議だよなあ、という体感が先行していました。だいぶ前のことなのだけど、これらの経験が強烈で、いまでも海≒不思議というのがどこかあります。

潮の満ち引きから脱線してしまったのですが、未知の状態から海のことを理解しつつ、理解しても不思議という言葉が出てしまうのは、理屈など言葉では説明がつくのはわかってるのだけど、現象が目の前で提示されると説明などの言葉を受け止めきれず根っこでは「いっちょんわからん」で済ませてしまいたい底が浅い反応なのかもしれません。

はてな今週のお題が「海」です。東海道新幹線では熱海のあたりで相模灘を眺めることができます。気がついて眺めることができるとちょっとだけテンションが上がります。見逃すとちょっと悔しい。海を眺めるとテンションが上がるのはもう40半ばなのでヤメにしたいところです。おそらく海を眺めてテンションが上がる理屈としてはおのれの児童性の表れかもしれぬのですが、でもおのれの児童性を受け止めたくない・どこか認めたくないのでそれを封印して、最近は熱海で海を眺めていくらかテンションが上がることを自覚しても「海を眺めてテンションが上がるのは不思議だよなあ」とだけ浅く考えるようにしています。これを書いているわたしはそういう浅い考えを選ぶので書いてる文章も浅いです。深いことが書けぬ悔しさで袖が乾く間もない、とカッコいいこと云いたいところですが、いま着てるのはタンクトップであったり。