ようようしろくなりゆくやまぎわ

前にも書いたかもしれないのですが、「春はあけぼのようようしろくなりゆくやまぎわ」っていうのを古典でやります。ところがこれって東側に山が無い関東平野のど真ん中の人間にはぴんとこない話で、しかし覚えないと点数になりませんから「ああともかくこの人は朝陽があがる山際が良い、といっっているんだな」と理解してそれで終わりにしていました。そこに書いてある内容は理解しつつも、どういう状況だかはほんとのところわからない、っていう不思議な状況です。それを読むといっていいのかどうかはわかりません。でもって、古典や国語のテストの何割かは「ぴんとこなくても他人がいってることを呑みこんで、わからないところは類推しながら適切なものを当てる」ゲームみたいなものなんじゃないの、ってのがありました。ぜんぜん違うかもしれませんが。でもそうやって切り抜けてきたところがあります。問答無用で呑みこんだもののいくつかに、百人一首があります。そのうちの恋歌のいくつかはおのれがその当事者になったときいやというほど身に染みて血肉になりました。また問答無用で「呑みこむ」おかけで類推能力はそこそこついた気がします。古典や国語ってのは「これが正解かな」という類推能力を鍛えるには充分だった気が。しかし「これが正解かな」というのをさがすには文章を読んだ上でのおのれの考え・感想ってのは無用かもしれません。個人の考えを必要としない学力ってなんなんだろうという疑問もあるんすがそれはともかく。
国語や古典をそうやってやり過ごし文学というのがわからないまま大学になるとこれは正解かな、というのがないような衝撃的なものにぶつかります。たとえばシェイクスピア真夏の夜の夢ってのがあって、その一文

Love looks not with the eyes, but with the mind,
and therefore is winged Cupid painted blind.

恋は目でみずに、心でみるもの、ゆえにつばさあるキューピッドは盲目で描かれている、って訳すことが可能です。でも音読していただくとわかるのですがmindとblindは韻を踏んでますしseeが単に見えるだけのものに対して自発的にみるlookを使ってること、実体験でキスをしてるときに目をつぶってることなどを留意すると答えはひとつとは限らないんじゃないかとか、文章を味わうほうが面白くなって正解あてゲームが馬鹿らしくなってきます。大学出ちまえば鬼太郎の歌じゃありませんが「しけんもなんにもない!」ということもあって文章を読んでも正解あてゲームはあんまりしなくなりました。でも文学とかそこらへんのものはたまに正解あてゲームに思えちまうこともあるんすが。
根っこで「ようようしろくなりゆくやまぎわ」≒他人が述べてることは理解できるけどその実どういうことかよくはわからないことがある、ところは解決しなかった・頻発してるので、正解あてゲームを放棄しつつひっかかりがあったら他人の意見も呑みこみつつこれはどういうことなんだろうという思考の末におのれの意見をどうしても考えちまうところがあります。その姿勢が役に立ったかといえば他人と違えばもの知らずに思われたりするだけであんまり役には立たないのですけども。文学って読んだことを自慢することでもないし正当性を争うものでもないような気が。