失敗しないナントカ

ハウツーものといえばいいのか「失敗しないための××の△つの方法」的なものがあったります。生理的に苦手で苛立つものであったりします。でもなんで苦手なのか・苛立つのかよくはわからなかったりします。
考えられる理由のひとつは「こうすればいいですよ」的な評論家的な啓蒙的な言い方に対して抵抗があって、これが「デキるスマートなサラリーマンになるための△つの方法」とかだったら、おれデキない不細工なサラリーマンでいいからよ、あんたが代わりに泥かぶって根回ししてくれよ、的な反発を覚えちまうからかもしれません。
もうひとつは勤続年数が長くなってきたら前例がないものを担当したことがあって、自力で問題点を地道に解決しなくちゃなことがあって前例がない場合、なにもしない以外、失敗しない方法なんてありません。なにもしないという選択肢をとれない場合、あいまいなところとはっきりしてることを区分けして焦点を絞り、ネガティブ潰しというか解決するためにときとして頭をさげて・または軽く脅して、地道に前に進めなくちゃです。「失敗するかもしれないけど万全の準備をして進む」ことで事態を切り開いたので、体感的に失敗を考えてたら前に進めない可能性があることを理解したことがあります。前例のあるものは前例がつかえますが、「失敗しないナントカ」的なものに苛立つのは前例のある事態にあたらなかったせいでしょう。いいなあ、そういう担務のほうが楽だったかも。
失敗しない、間違えない、効率よく、というのは魅力的に聞こえます。もちろん効率が良いことや失敗や間違えはないほうが良いものです。でもいつの間にか不効率や失敗が許されないかのような世界になってきちまってる気がしてならず、しかしリカバリ可能な・致命的なミス以外は失敗は本来許されるはずのものです。机上のことで理解していたつもりで実際に失敗してさらに理解する、ということもあり得ます。もちろん小さな失敗をしたときに「誰かが答えや選択肢を教えてくれればいいのに」と思うことがないわけじゃないものの、軽い失敗を含めて体験して理解したことのほうが絶対身に沁みこむのとそのプロセスが大事なんじゃないのかな、と人を教える立場になって、考えることもあったりします。
このほうが良いですよという方向性を指示しながらというか「失敗しないナントカ」というのが思想統制のために書かれてるわけではなくとも、「失敗しない」方法は思想統制を自ずから成立させ行動を守りに入らせやすくなってる気がしてならんかったり、って、書いてることが誇大妄想的になってきちまったんすが。でもなんだろ、世の中が「失敗しないナントカ」に傾きつつあり、萎縮してる気がしてならんかったり。