伝達効率のよい言葉・伝達効率のよくない言葉

なんべんも書いてることなのですが、私ははてなハイクというSNSのようなものを使っていたときに、そこに書いてある他の人の文章が同じ日本語で書かれつつもちっともわからなかったことがあります。そこらへんから言語による意思疎通について、ボールペンの先っちょでビー玉を転がすようなあちこちに転がる・答えのないことを考えるようになっています。もちろん答えは持ち合わせていません。ただ、ひとつだけわかってることがあって、書くほうと読む方が・話すほうと聞く方が、同質性が無かったら伝わらないのではないかと(これもなんべんか書いているのですが)考えています。博多華丸大吉師匠の漫才で博多のお父さん役の華丸さんが「一番でも内川、二番でも今宮」と数え歌を歌いだす場面に出くわして、ホークスの背番号の知識があれば別としてそうでなければ博多弁でいうところの「いっちょんわからん(≒まったくわからない)」状態に陥るわけで、知識などの同質性がないと意思疎通が困難になるのではないかと気がついて、その漫才では大吉先生が諫めるのですが大吉先生のような人がつねにいるわけではなく人は容易にそういう状態に陥ってしまうのではないかと想像していますって私の問題意識の話はどうでもよくて。

話はいつものように素っ飛びます。

今朝の毎日新聞の書評欄、渡邊十絲子さんという詩人の方が手洗いに関する詩集(「新しい手洗いのために」TOLTA著・素粒社)を担当していて、私はその詩集は読んではないので本来なら書くべきではないかもしれないのですけど、その書評のなかで「伝達効率の良い言葉は人間の心の柔らかい部分には届かない」「外出自粛などの言葉は予め同じ考えを持つ人にしか伝わらない」と書いていて、妙に腑に落ちています。感染症が拡大してる状況下で感染拡大を防ぐための取り組みを誰もが判るように効率的に伝えるためにどんなに平易な言葉で語ったとしても、上に書いたホークスの背番号と同じで同質性≒感染症に対する知識や恐怖が共有されてなければ別として伝わらないかもしれないはずで、個人的によくわかる問題提起なのです。もっとも私はその問題の妥当な解を持たないのですが。

ちょっとだけ横にズレます。

文中、渡邊さんは現在の状況を踏まえ、「世の中は実用的な言葉だけで出来ているわけではなく我々のすべて行為が目的や成果を問われてるわけではない」と述べつつ「わたしの頭にふだんから去来しているのは、役に立つとは思えない雑念ばかりだが」としたうえで「そういう雑念がわたしを作りあげている」とも書かれてて雑念ばかりの私は首がもげるほど同意なのですがその上で「目的や達成率を問われる公的な側面はわたしの本質ではない」「わたしだけではなくみんなそうなのではないか」と投げかけます。ここらへん、江ノ島なめろうのどんぶりを喰いに行けないことを含め自治体の呼びかけに応じてなるべく私用では県境を跨がないようにしつつ鬱屈が溜まってゆく理由が・各種指数を眺めながら私個人の責任とは思えないけど感染者の多い東京の都民であることを理由としてなんだか指弾されてるような暗い気分になってた理由が、理由になってないかもしれないものの感覚的にすこし理解できた気がしました。この部分を読めただけでも良かったと思っています。

話をもとに戻します。

渡邊さんは「その方法は伝達からずいぶん遠いところにあるはずである」と書きます。「なんの役に立つかわからないような、回り道や袋小路ばかりの混とんとした言葉」に可能性があり、「謎を発見しそれを解きたいと思ったとき、人ははじめてそこに書かれた言葉に向き合うからだ」と書かれていて、多くはない読書経からしても(てめえは五臓六腑以外にいくつ腑を持ってるのだと怒られそうなのですが)腑に落ちています。感染症が拡がって生命や身の安全などを意識せざるを得ない状況下でいちばん有効なのは、実用的ではなく・伝達効率とはかけ離れた言葉ではないか、という問いかけは、その判断が正しいかどうかはもちろん私は判断できませんが、なんだか傾聴に値するような気がしてなりません。と同時に効率性を求められる社会においてそれはすごく皮肉な状況であるなあ、と感じています。

ここまで書いてきておいてなんですが、私は詩に理解の浅い無産無知識無教養労働者です。渡邊さんは「詩の言葉は無意識に対するレジスタンスなのだ」とも述べ「ひっかかりをつくりだし謎を提供すること。だから詩は理解したってなんにもならない。長持ちする謎を発見すればそれでいい」とも書かれています。それについてもシロウトなので妥当かどうかはまったくわかりません。でもなぜ詩というものが存在してるのか自分の言葉でのまだ言語化は難しいのですがうっすら理解できた気がしました。

おのれの抱えてる疑問に近いことが書いてあったせいか、度数の高い酒類をあおったあとのような感覚がありました。いまのコロナ禍はできれば避けて通りたかったものではあるのですが、今朝の書評欄はそんななかでのちょっとした零れ幸いであったり。