たられば

はてな今週のお題が「私のタラレバ」です。
選択をともなう判断というのは「別のほうが良かったんじゃないの」という「架空のある選択をしなかったことに関しての損」に責められやすいです。先のことが見通せれば話は別ですが、未来のことなんてまず霧がかかっててそんなに簡単に見通せません。霧のかかった状況を前にして選択したほうが良いことの証明はしにくく、また選択しなかったほうの選択肢を仮に選択してからといってうまくいく保証は必ずしもあるわけでなく、どっちにころんでも精神の安寧が訪れることはあまりあるわけではありません。ですから私は「あんまり後悔しなさそう」という軸で判断して、そのあとはあんまり考えません。霧が晴れてある選択した結果が必ずしも理想でなかったとしても「後悔しないだろう」という理由で選択したわけですからあんまり後悔しません(見通しが甘かったことを恥じることはあります)。選択して起きてしまっていることに問題があるとき、そこから解法を探し出さなくちゃということを優先すべきであるので、やはり仮定の「あのとき○○してれば」ということをあんまりしません。
でもまったくしなかったわけではありません。
同じものがついてるベッドで上を通過する人は会社を経営していますが、かつて「会社に入らないか」ということを誘ってくれたことがあります。先方は工学部でこちらが(実質あほうがくぶ卒でも名前は)法学部卒でなおかつ税務がある程度理解できていたので判らないでもない話です。いつも一緒にいるというのは魅力的でそして代え難い相手ではあるものの、対等をキープしていたかったので雇用者と被雇用者っていう上下関係になるのに抵抗があって、さらに抱えていた仕事の都合や家庭の事情もあって、断りました。結果、彼は金融機関勤務の妹を呼んでその役を任せ、いまは盛業中であるのでそのほうが良かったと思われるんすが。でも仕事に関する愚痴を寝床で聞くことがあって、あのときOKを出してい「れば」ってのはないわけではなかったり。若干のうしろめたさがあるのでそういう愚痴は黙って聞いています。
仮の話をしても不毛かなーと思いつつ続けます。
いくらか厄介な性をもっちまってからおのれがもし女性だっ「たら」ということをまったく考えなかったことがないとはいえません。もしそうだったら大っぴらに手をつなげて歩けたよなあ、なんてことを考えちまいます。でもなんだろ、こちらが女性だったら逢ったのが男子校でしたからすれ違うこともなかったろうし、そして性格がそのままだっ「たら」、甘えるのがヘタで媚びるのが苦手で可愛げがなく、素直ではない、好かれそうなところが見当たらず、上を通過する人に振り返りもされそうにないかもってのは確信としてあります。つか、上を通過する人はヒロスエ好きなので、広末涼子似だっ「たら」かなり話は違ってくるんすが、って書いててやはりどんどん不毛になってくるのですけど。つか、人って性とか容貌とか性格とかいったいなにに惚れるのですかねって、我が身にふりかかるブーメランかつ根源的な疑問に行き着くのですが。
「たら」の話って、悲しくなってくるんすけども。
もっとも鍋に入ってるタラはとても好きです。レバーは食べれないことはないけど苦手なんすがここのところ「喰うべき」といわれてて、食べるようにしています。でもあんまり好きになれなかったり。