光差す

現在、小説はむずかしい時期を迎えてるとよく言われます。人は本を読まなくなった。特に小説を読まなくなったということが世間の通説になっています。しかし僕はそのようには思いません。考えてみれば我々は2000年以上に渡って世界のあらゆる場所で物語という炎を絶やすことなく守り続けてきたのです。その光はいつの時代にあってもどのような状況にあってもその光にしか照らし出されない固有の場所を持ってるはずです。我々小説家のなすべきは、それぞれの視点から、その固有の場所をひとつでも多く見つけ出すことです。我々にできることは、我々にしかできないことは、まだまわりにたくさんあるはずです。僕はそう信じています。(後略)
村上春樹さんメッセージ・物語の光を信じて・毎日出版文化賞受賞のあいさつ」11月26日付毎日新聞より転載

今朝の毎日新聞村上春樹さんの毎日出版文化賞についてのコメントがあって、腑に落ちたっていうか、巧いことを言うなあ、と思いました。実は村上春樹という人の作品を最後まで読めたためしがないのですが、云わんとしてることはなんだかすごくよく判るのです。文学という、いつなんの役に立つか判らない本をなんでの読んじまうんだろう、のめりこむようにそこから意味を考えちまうんだろう、ってなことを最近考えてたのですが、あー、自分の中にある暗闇のようなものを照らし出してくれる光をどこか欲しがってるところはあるよなー、と思いました。でもって、誰かが燃やしてくれた炎で暖をとったこともありますし、光のおかげで方向を見出したこともあります。


なんで源氏物語の浮舟にひっかかったかってのも、たぶん、あれっす。誰かの期待に沿う動き方はしなくていい、賢明な答えを出さなくてもいい、ってことを云って欲しかったんだと思う。そういう闇があって、その闇に紫式部というひとが照らし出した光源が差し込んだから、ひっかかったのかもしれないです。超個人的な話で恐縮ですが。