宮沢賢治に関する個人的な覚書

注文の多い料理店というのを読んだのは私が紅顔の美少年だったころです(若干の誇張あり)。一見どってないことの文字・言葉の羅列の後ろにとんでもない意味と結末が控えてるあの物語は、文字を注意深く読まねばならないとああなるよ・書かれてることをそのまま鵜呑みにすると書いた人間に料理されてるだけなんだよ、という警告に思えたのですが、読んで衝撃を受けてくたびれたおっさんになってもあれこれかんがえるようになるくらい影響を受けてます。バカだなあ、と思うのですが宮沢賢治が下宿していたところも本郷に用事ができた際に訪問しに行っていたりします。それが何の役に立つのか、といわれれば何の役に立つわけでもありません。ただ本郷の赤門前で講義録を印刷する会社の筆耕係をしていた、というのが興味深くて、文字に忠実に従っているととんでもないことになる注文の多い料理店につながるのかなあ、などと今でも思っています。
あきれられそうなこと言うと私は一時期宮沢賢治という人が怖くて、ある種の狂気のようなものをもってるような気がしてならず、文章を読んでると変なところにこっちが連れてかれる感覚で、でも怖いんだけどつい読んでしまうところがありました。読めば読むほど、狂気というか怖さをちょっと感じていたのですが。
宮沢賢治のお父さんは仏教に深く帰依していて、賢治自身も小さいころから浄土真宗の「白骨の御文章」を暗記していた、とも言われています。「われやさき人やさき、けふともしらずあすともしらず」っていうあれです。独特のリズムを持った口調はそこらへんも影響を受けてるのではないかなあ、と愚考するのですが、仏教というものが小さいころからそこにあったはずです。実家は裕福で、そして質屋を兼ねていて、したがって生活に困窮した人が訪問してくるような場所で、不景気・不作になれば質草をもって困った人が賢治の実家を訪れたことは想像に難くありません。でもって、それが仏教的なものと結びついてグスコーブドリの伝記とかの自己犠牲の方面にいってしまうのかもしれません。質屋という他人の経済的不幸を商売のタネにする家にいながら、知った仏教の世界とのはざまに陥ったことが、その後の作品群に影響与えたのではないかとおもうのです。そして法華経に触れて、そのうち国柱会という法華経系の教団に傾倒します。家出して東京まで行くのだけど(このとき本郷に下宿する)、農家は鍬をもって、商売人はそろばんをもって、文学者はペンをもって、世の中に弘むるのが正しい修行のあり方って諭されて、童話をいくつも作ったあとに最後は花巻に戻ります。花巻では農学校の教師になり、岩手農林で地質を勉強していた経験から農業相談をし、さらに炭酸石灰を酸性土壌の土壌改良資材として薦めるようになり、さらに石灰供給元の砕石工場の依頼で技師となりつつ普及・販売促進のために岩手県内各地や宮城、秋田へ出張し、病をひどくして死を得ます。「雨ニモマケズ」を地で行くというか。生きざまを追うと言行一致とか、そういうことばがなんとなくぴったりくるのです。銀河鉄道の夜では「ほんたうに、みんなの幸いのためならば、ぼくのからだなんかひゃっぺんやいてもかまわない」っていうような部分があったりします。そこらへんあわせて考えると、ちらちらって見えてくる自己犠牲とともに愚直なまでの求道者の姿が見えてきます。それがどこか、怖いのです。ゆるぎないせいかもしれません。その怖さが、篤い信仰を持つゆえの純粋さの裏返しであるんだろうと理解できるようになったのはつい最近のことです。一つ告白すると母方の一族は国柱会で、母方の一族は信仰に篤いものの宮沢賢治のようなひとはでませんでした。もし信仰に熱心になりすぎるとああなるのか、という怖さがあったんすが。宮沢賢治は人としてあるべき姿なのですが、つまるところ、純粋で人としてあるべき姿が凡人である不純な私には怖かったわけで。
はてな宮沢賢治の作品について書いてらしてる人がいて自らが透き通るような、とかかいてらして、猛烈な違和感を感じたものの、わたしの宮沢賢治のとらえかたはおかしいんだろうなあ、なんてことに気がつきました。てかwebというものは、個人の差異をけっこう思い知らされる場所だよなあ、と思うのですって、そんなことないかもなんすけど。