物語を炎や光にたとえるのが、腑に落ちたのはなんとなく、落語を知ってるからかもしれません。死んだ父が落語が好きだったせいか(立川流の人を応援していた)その遺伝子がいくらかあって、大人になってから落語も面白いと思うようになりました。落語ってなにかしらの物語なんすけどなにかしらの示唆に富んでることがあったりとか、聞いてる間はほんとその世界に没頭できたりします。聞いてる間はなにもかも忘れられることが多いです。そこらへん物語の力ってのが有るんだと思います。春樹さんに訊いてみたわけじゃないけど、物語が炎ってのはそんな部分もあるんじゃないか、と思います。心が閉じたり冷えたりしても、物語ってのは、たぶん、笑わせたり人を集中させたり、考えさせたりすることが可能だからです。
このブログで何回も取り上げてる「文七元結」ってのがあるんすけど、娘が自発的に吉原へ行って工面してもらった50両を通りすがりの若者にくれてやるんすね。この場面がキモなんすよ。談志師匠はここは交通事故だ、目の前に交通事故があったとき、人は無視できるか、ってなことをいうのですが、主人公はひどく苦悩するのです。大事な50両なんすよ。でもその50両くれてやれば目の前の人は助かる。じゃあ、どうするか。ほんと馬鹿なのですが、身の安全を祈ってくれればいいからっていう条件をつけてくれてやるのです。「真っ直ぐな馬鹿」を笑えるか。私はいとしいと思っても、笑えないです。
で、立川談志さんは「落語は人間の業の肯定である」という理論を持ってます。私はそれに影響されてるところがあるのですが、人間って合理的で賢明な行動取らなくてもいいんじゃね?って光をこの噺はもってるんじゃないのかなあ、と思うのです。しつこいようですが、賢明な行動をするとは限らないかもっていう闇をもってるから、闇に光が差したような気がしてこの話に惹かれるのかもです。
ただここらへん、ほんと人によって違うんじゃないか、と思います。ほんと私が腑に落ちただけなのですが。