すこし前に『翔んで埼玉』という映画がありました。その映画の中では埼玉県民は埼玉県民であるがゆえに「そこらへんの草でも喰わせておけ」と云われてしまいます。物語の中では埼玉県民以外はその対応に違和感を抱きません。しかしながら(いくばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが)その発言をした当人は恋した相手が埼玉県民とわかると態度を変えてしまいます。『翔んで埼玉』は誰もが陥りかねない「特定の属性をそのことだけで下に見ることの浅薄さ」をフィクションに載せて巧く浮かび上がらせています。
埼玉県民に対してだけでなく「そこらへんの草でも喰わせておけ」といったような対応は、いいかえれば「特定の属性をそのことだけで下に見る」ことや「特定の属性をそのことだけで違う扱いをする」ことは、現実にはNGのはずです。本来は誰もが法の下では平等であるべきだからです。しかしながら「そこらへんの草でも喰わせておけ」とはいわれてないものの、いわゆるセクシャルマイノリティに属する場合とりわけ同性同士のカップルは婚姻が事実上できませんし、異性2人内縁関係でも健保等社会保険は片方が被扶養者になれますが婚姻できぬ同性2人では不可です。法の下の平等があるはずなのになぜそれらをセクシャルマイノリティは受忍しなければならないのか?という点を説明できない限り『翔んで埼玉』に出てくる埼玉県民への扱いを笑ったら笑ったぶんだけブーメランのように背中に刺さります。
さて、法律というのは建前としては文言に縛られますから「差別は許されない」という文言があればそれが空虚で実効性が無くても建前としては差別は許されなくなります。いわゆるLGBT法案の条文について「差別は許されない」から「差別はあってはならない」という修正がなされようとしているタイミングで駐日米国大使ほか15か国の大使が連名で差別反対とセクシャルマイノリティへの支援のメッセージをTwitterを通して出しているのを知りました。差別反対の文言はそれが空虚な実効性の無い建前だとしても「差別は許されない」という文言が消えたことへの危惧ともとれますし(同時に日本が自由や平等といった理念を共有していたと思っていたにもかかわらずの失望と表裏一体かもしれぬのですが)、支援の表明はセクシャルマイノリティの場合は家族や学校や地域社会などから孤立もしくはいったん拒絶された上でセクシャルマイノリティを改めて自覚することが多いのですがつまり帰るところのないセクシャルマイノリティへの連帯ともとれ、国籍は違えど誰一人として孤立をさせねえぞという意思表示のはずで、唸らされています。
15か国の駐日大使のメッセージを知って、法の下の平等を大切にし(ゆえに差別は許されないという発想が出てくるはずなのですがそれはともかく)個人が個人として建前としては大切にされている国とそうではない『翔んで埼玉』的な国の差異を見せつけられた気がして「あ゛あ゛あ゛」となっちまいました。いわゆるセクシャルマイノリティであるので当事者かもしれぬものの政治に詳しくないのでこのへんで。