神戸から下関まで山陽線というのがありますがこの山陽線というのはとても不思議で、相生から岡山までと三原から広島までは山の中を走り、かつ、峠越えがあります。いくらか遠回りになるもののそのすぐそばに赤穂線と呉線というのが海辺を走っていて峠越えがなく、播州赤穂も呉もそこそこ大きな街でそちらのほうを本線にした方が良いのでは?とシロウトは考えちまいますが、なぜかそうなってはいません。ところが岩国から徳山までは山の中を通らず遠回りして海辺に線路があります。一見すると謎なのですが、謎に感じていても特に問題はないのでそのまま放置していました。
ここで
を引っ張ると『幕末維新のこと』(司馬遼太郎著・関川夏生編・ちくま文庫・2015)という本を読んでいてその中の「『日本史と日本人』より」という文章を読んでその謎が氷解しています。山陽線建設時に、王立で鉄道を敷いたドイツ帝国に留学経験のある陸軍の参謀総長が海から攻撃を受けたらまずいという観点から海辺に鉄道を通すのに反対し(P280)、私鉄が鉄道を敷設したフランスに留学しその影響を受けた陸軍大臣は鉄道というのはそもそも軍のために敷くものではない、と参謀総長に反論し(P281)、揉めたようで。結論からいえば(ここらへんきわめて日本的なのですが足して2で割るような)それらの折衷案となり、だから今のようになったのだな、と腑に落ちています…って私の落ちた腑は横に置いておくとして。
山陽線建設を踏まえて「『日本史と日本人』より」において司馬さんは
日本人は、第二の母国を持っていて、それで物事を発想する
(P282)
と喝破しています。ひどくよくわかる話で、鉄道敷設の基本的考え方に限らず、たとえば刑法はドイツの影響があり、民法はある程度フランスからの影響があり、いまでもそれが継続しているのでそれらを学ぶ場合はどうしても第二の母国をうっすらと持つことになります。
さかのぼれば班田収授法は唐の均田制をまねてて、現在でもコンビニのフランチャイズシステムなど基本的な部分は米国のものを基礎にしていて、というように今も昔も日本以外から来たものをヨシとして受容し、それが基本になってるとことがないわけではありません。
話はいつものように横にすっ飛びます。
10年以上前にweb上の年下の知り合いから、ドイツの戸籍制度とフランスの民法が日本の戸籍制度と民法の基礎になってることを説明したあとに、なぜ日本は他国のものを容易に受けいれるのか?固有のものを作りあげなかったのか?という根源的な問いを受け、答えに詰まっています。いまでも答えられません。ただ、上記の司馬さんの
「日本人は、第ニの母国を持っていて、それで物事を発想する」
というのはその直接の答えになっていないかもしれませんが、すべてをゼロから作り上げる時間がないときに、当座のよすがとしては有用だったのかなあ、と。
司馬さんの文章は、不勉強なシロウトが難解な日本史の問題を考えるうえで、あってるるかどうかは別として大事なヒントを与えられることがたまにあります。今回もそうで、読めてヨカッタかな、と。