「察してもらおう」について

去年の秋くらいに毎日新聞には歴史上の人物について現役医師が健康面から解説するコラムが連載されていて、カルテがあるわけではないので信憑性には疑問符がつくのですが、朝に時間がないにもかかわらずつい読み耽っていました。そのなかでかなり印象に残ったのが明智光秀で、肖像画を基に彼は近視だったのでは?という仮説を紹介していました。近視ゆえに表情をよみとることができずに察せずに信長の不興を買うことが多く、対して秀吉は光秀ほど目が悪いわけでは無かったので表情を読み取り察して機敏に気が利く対応ができたのでは?という趣旨であったのですが、しかしこの仮説の弱点は光秀が鉄砲の名手であったこととの整合性がつきません。

その記事が印象に残った理由は簡単で、私も察することは得意なほうではない上に乱視で目が極端に悪く、ああこの察するのが得意ではないのは目が悪いことにあるのか…と理由を見つけた気がしたからです。でもおそらくそれは錯覚です。

というのは。

「察する」というのは自分以外の「察しろ」という行為が無いとできません。個人的なことを書くと「察しろ」という行為を私はまずしません。簡単な話で、自力でなんとかできそうなことは自力でして、それでダメなら頼み事として口にしてしまうことが多いです。そもそも具体的指示なしに察しろなんて人間はエスパーじゃねえんだから…という意識があります。そんなのが他人の察しろに敏感になり得るはずがなく…って、書けば書くほどおのれがいかに人にやさしくないかについて書いてる気がするのですがそれは横に置いておくとして。

話はいつものように横にすっ飛びます。

3日付の毎日夕刊に先月までやっていた朝ドラの脚本家のインタビューがあって、その中に、男の子は不機嫌にしていれば誰かがケアしてもらえると考え「察してもらおう」となりがち、と書いてありました。私は異性と婚姻したことが無いし当然子が居ませんから育児とは無関係で、ので、その脚本家のその見解の妥当性を争う権利がありません。

ただその「察してもらおう」というのが子供時代に形成されるとして、その「察してもらおう」もしくは「察しろ」を大人になっても引きずる人はいて、それは子供から大人になれてない証左なのかな、と読んでいて思考が謎発展しています。しかしこれだと信長は子供を引きずった未熟な人間(で秀吉はそれを見抜いてお守りし光秀はそれを見抜けず大人だと思って対応し結果的に失敗した)ということになってしまいかねません。もちろん正解はわからないのですが、くりかえしますが実社会で大人でも不機嫌を隠さず察してもらうことを前提というか他人になにかを期待する人はやはりいて、いまのところの仮の解として、その脚本家の言葉がなにか重要なヒントを与えてくれた気がするのも事実であったりします。

なおその脚本家の場合、察してモードになったお子さんにはちゃんと言葉にするように、と伝えてるそうで。毒にも薬にもならない月並みなことを書くと、言語化って大切なのだなあ、と。

他にも、「なにかしら損を感じている中で自分が我慢しているのに他人がそうではないと感じ叩きやすい相手に怒りをぶつけるようになってる」とか興味深いトピックがあったのですが、長くなりそうなのでこのへんで。