日本読書株式会社から遠く離れて(本の感想や本の評価についてのまとまりのないこと)

『発作的座談会』(椎名誠沢野ひとし木村晋介目黒考二著・角川文庫)という本を高校の頃に高校の図書室で借りて読んでいます。ひとつのテーマに関して本の雑誌社の幹部が語ったものを活字化した本で、名誉のために書いておくと「無人島に持ってゆく本」等のテーマもあるものの「コタツとストーブどちらがえらいか」とか限りなくどうでもいいものも含まれるのでそこらへんは読みながら必死に笑いを堪えていました。そのなかに良い本を万人にすすめたいという観点から出た目黒さんがいいだしっぺの「日本読書株式会社」というのがあります。1ヶ月1000円の会費で中立な立場でカウンセリングしながら面白い本をすすめるなどの手法で本を紹介することで商売ができないか?1ヶ月1000円で2万人集めれば2千万で経費を半分の1千万に抑えればなんとかなるのでは?などと話が進み、しまいにはエスカレートして書評はプロに任せて闇書評は禁止という世界線へ行ってしまいます。その日本読書株式会社がどうなったかは是非文庫になってるので読んでいただくとして。

いつものように話は横に素っ飛びます。

他の人が良いとか面白いという評価を下したものを最後まで読めなかったことが高校生の頃にありました(たとえば『ライ麦畑でつかまえて』)。そこらへんから他の人が良いと思うものとおのれが良いと思うものには違いがあると自覚してて、いまから思えば噴飯ものなのですが労を少なくして受験勉強の合間に面白い本を読みたいという欲求があって目黒さんの考える「ゆえに日本読書株式会社があったらな」と思っています。でも現実にはそんなものはありません。そのあと同じ『発作的座談会』を読んでいた同級生の紹介で関係あるかもと勧められて『文学部唯野教授』(筒井康隆岩波書店・1990)を最初は借り、そのあと(「ちゃんと読まなくちゃいけない本である」と考えて)買って読んでいます。「面白い」もしくは「面白くない」というだけの批評に陥らない文芸批評に関することをフィクションを織り交ぜながら解説している内容で、しかしながら扱っている解釈学や構造主義など高校生には内容は難解過ぎていて、当時うっすら理解できていたのはその中の4分の1程度です。その上(実質はあほうがくぶの)法学部へ行ってしまったのでおよそ30年を経たいまでもすべてを理解できているとは思えません。ただ小説などを語るうえで世界には多くの蓄積があることを高校のときに知れたのはよかったのかもしれません。

さらに話は横に素っ飛びます。

本好きの紅顔の美少年…じゃねえそれほど美しいわけでもないけどテキトーに本を読んでいた少年がくたびれたおっさんになる頃にはインターネットが出来ていました。はてなにアカウントをとってあれこれ読んでいるうちに特定の作家の名を挙げて「面白さを理解できないのが理解できない」というような趣旨の最初に断定があって断定ゆえに説明がない書き込み、かつ、他人を貶めるようなものにぶち当たったりしています。日本読書株式会社を最初に読んだ頃は「闇書評は禁止なんてブラックだな」と思っていたもののそれを読んでカチンと来て以降は「書評はプロに任せた方が…」的なふうにブラックな方向に思考が動いています。もっともそれは表現の自由にかかわりますから危険思想です。ブログなどに本の紹介をかけなくなりますからかなり暗黒社会です。でもそれを一瞬とはいえ望んでしまっています。

じゃあ私がプロ並みの書評ができるかというと、唯野教授の内容を読んで何割かは理解しても自家薬籠中のものに出来ぬままなのでムリです。私が本について感想を書いたとしてもまったくといっていいほど反映されておらず、くわえて、読書という個人的体験について記述してるにすぎず、ので本や書評や本の感想について私はあまり大きな口は叩けなかったりします。

先日、毎日新聞の黒枠記事に目黒孝二さんの訃報が載っていました。本の雑誌本体は縁があまりないのでほとんど読んでおらずゆえになにか書くのは変かなあ、と思いつつ書きたくなってしまっています。本を読むことやそれを評価するという行為について長いことあれこれ考えるきっかけになったのは本の雑誌であり日本読書株式会社を考えた目黒さんであったりします。寂しさとは別の、いまにいたる道しるべが消えてしまった喪失感があったり。