「煙たい男」

義務教育の頃に「なんでこんなものを読まされなければならないのだろう」という作品がありました。筆頭は森鴎外舞姫です。恋路とおのれに課せられた使命とどっちをとるの?という作品なのかもといまは気が付きますが、コイと云えばカープくらいしか知らず恋などしたことがない人間にとっては「知りもしないエリートの優柔不断な男の悩み」をなぜおれが読まねばならんの?というのがありました。そんなやつですからはてな今週のお題が「読書感想文」ですが、学校で渋々読まされた本の感想文は苦手でしたし、それを引き摺っていまでも苦手意識は抜けません。ましてや読書の世界では読書は経験であるということからか、多くの人と経験する千人切りと同じくたくさん読むほうがなんとなくエラくてスゴいという空気が漂っていますから、遅漏…じゃねえ遅読で労働者ゆえにそもそも本をたくさん読んでない方からすると本を語ることすらおこがましい意識があって肩身はひどく狭いです。加えて、本を読むことは嫌いではありませんが、読んだ本について他人に説明して思うところを書くということはおのれの読解力とそれまでの知識と思考回路と表現力をさらすことになりますから、どこも隠さず全裸でカンカン踊りをするようなもので私にとっては笑われることの恐怖と常に隣り合わせで勇気が要ります…ってそんなことは横に置いておくとして。

話はいつものように横に素っ飛びます。

最近読んだ本のひとつに「談春 古今往来」(立川談春・新潮社・2014)があります。さだまさしさんと談春師の対談や前作「赤めだか」の登場人物の後日談のほか、いくつかのインタビューなどをまとめた本で(詳細はお読みいただくとして)、病院の会計の前などで読みすすめていました。そのなかに

ー先ほど、いまの人は伝えようという欲求が希薄だとおっしゃっていましたが、誠実に自分の意見を伝えようとする談春師匠からは、いつも愛を感じます。そう考えると、いまの日本は愛が足りないということでしょうか?

「違う、愛が溢れすぎている」

ー溢れすぎていますか?

「当たり前だよ。言葉を尽くして説明しなくても愛されると思い込んでる」

ーそれは錯覚?

「錯覚じゃないよ。そう教育されてるんだろうよ。人は誰からも教わらず、こんなに他人の気持ちに敏感すぎたり、鈍感すぎているわけではないんだから」

(P154「煙たい男」)

というのがありました。私は言葉で苦労し、知らず知らずのうちに言葉を尽くすようになったのですが(なので文章も長いのですが)、言葉を尽くさない人もいるわけで、それはなぜだろうという純粋な疑問があって(私はそれを言葉を尽くさなくても同質性があると思い込んで理解してもらえると考えているからかな?と仮説を立てていた)、談春師匠はそれを上記のように「言葉を尽くさなくても愛されると思い込んでる」と喝破してて、正直、(人の気持ちに敏感すぎるというのも含めて)云われてみれば腑に落ちるものでした。てめえはそんなことも知らなかったのかと呆れられそうではありますが。

他人の視点をおのれの中に取り込むというのができるというのは本を読むことの効果のひとつと思うのですが、上記のインタビューやそれ以外の表現や芸に関する見識を含め談春師の視点に出会えたことは零れ幸いです。そう考えると、恋を知らなかった頃のおのれに恋をすると頭が良くても男は優柔不断になるという視点を与えてくれた森林太郎博士にも感謝せねばならぬ気もするのですが、なんだろ、嫌々渋々読んで知った本から得たもののせいか素直にはなれなかったり。読書って、置かれた条件によって感想って変わってきませんかね、変わらないかもですが。