劇場の継続についての雑感

これから、いつにもまして、まとまりのないことを書きます。

歌舞伎の演目に「お祭り」というのがあって、その演目では伝統的に観客が必ず「待ってました!」と声を掛けます。その掛け声を受けて「待ってましたとは有り難い」と続きます。演劇全般を語ることはできませんが、歌舞伎は実は観客が居て成り立つものがあります。「身替座禅」という演目があって、登場人物が奥さんにうそをついて別の女性に逢いにゆくのですが、逢引の帰り道の場面で「おかえり!」と劇場内から掛け声がかかったことがあります。昔からの伝統なのかどうなのかわかりません。が、劇場内がその掛け声でより一体感を増したことは言うまでもありません。

野田秀樹さんが「演劇は観客が居てはじめて成り立つもの」という文章を含む「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません」という声明を出してて、それを毎日新聞で読んだのですが、個人的には歌舞伎をいくつか観ていたので観客が居ないと演劇は成り立たないという点と、そして理屈とは関係ないところでなんだか腑に落ちる内容でした。記憶に間違えなければ311の時は東京の郊外では計画停電はありましたが、計画停電のない新橋演舞場は数日休場したのちに興行を継続した記憶があります。「身勝手な芸術家たち」という批判の声はほぼなかったはずです。忙しくて行けませんでしたが劇場が開いてるということを知って「なにをやってるんだろ」「誰がやってるんだろ」という興味を含めて、現実を一瞬でも忘れさせてくれるきっかけをくれました。なのですごく情緒的なのですが「劇場は継続されなければなりません」というのは、そうあって欲しいところがあります。

野田さんの声明とは裏腹に、実際、歌舞伎を含めた一時公演中止が相次いでいるのを知るとやはり残念であったりします。屋内の閉鎖的空間で人と人が近接した距離にいると新型肺炎の患者集団が発生しやすい、というのを読んでしまうと、(歌舞伎の場合、幕間に弁当食べたりするのでなおさら)劇場は悲しいかなかなり厳しいはずです。やむを得ないのかなあ、と。

私は本をたくさん読んでない無教養労働者階級で無知なので、ゆえに「古典(もしくは百年以上前の作品)が今でも愛されてるのはなぜだろう」「歌舞伎のような演劇の伝統芸能が今でも愛され続けてるのだろう」というような素朴な疑問を持っています。正解は判りません。判りませんが、フィクションに浸ることで現実を一瞬でも忘れることができ、ときとしてフィクションがないと人は生きていけないのではないか、という仮説を持っています。でも仮説を証明したくても証明するすべはなく、あまり説得力はありません。あと、演劇のフィクションを通して別の視点を見つけることがあるので演劇として生きながらえてるのではないか、とも考えています。たとえば身替座禅で、逢引から帰ってきた登場人物は奥さんの前で詰問されバレるウソをつくのですが、より烈火のごとく怒ります。それを眺めて、人は浮気されることよりウソをつかれることの方が怒りがでかいのではないか、ということにとても小さなことなのですが改めて気が付いています。これらのことはほんとあくまでも個人的体験にすぎません。やはり説得力はないかもです。でも歌舞伎(≒演劇)が無かったら知らなかったことであったりします。

私は歌舞伎というか演劇というかフィクションでいくつかのことを学んでます。無くてもたぶん生きてはいけます。でも、ないよりあった方が絶対ありがたいのです。できることならば、可能な限り早い日の事態の収束を願い、演劇興行の復活をお願いしたいところであったり。