頭を下げることが特別な行為になってる社会

世の中にはいかすけない奴というのがいて、そういうのには意地でもまず頭を下げませんが、そうでなければわたしは割と頭を下げることを厭わないです。頭を下げなければならない事態というのはたいてい問題が解決してない状況であることが多く、なのでその状況を改善するためなら頭下げることは別に屁でもないからです。逆の立場になっても頭を下げてもらうより、事態をどう改善するかというほうに思考がゆくのでその意見を求めることが多いですって、てめえのことは横に置いておくとして。

1日の毎日夕刊(東京版)にいきものがかり水野良樹さんのコラムが載っていて、そのなかで年長の人がミスをしてもなかなか頭を下げないことなどで知り合いが困惑してることに触れながら

確かに謝罪をするという行為が特別な行為になってるかもしれない。年齢の話ではない。社会の変化の話だ。

と書いていて、ああそういえば、と思い当たるフシはありました。謝罪とはちょっと違いますが私はわりと頭を下げてしまうので威厳があんまり無いように見えると後輩から忠告を受けたことはあって、その裏返しは「みんな頭を下げない」のはずです。おれが異常なのかも。

また水野さんは、不倫や被害のない法律違反などで謝罪する姿がテレビで消費されるのと、フィクションであっても正義を貫いた主人公に敵役が土下座するのを喝采することは根底でつながってると指摘してて、さらにSNSに言及し

そこではより良い答えを議論によって共創してゆくことよりも、どちらが正しいかを厳密に結論づけようとする競技性のほうが顕著だ。謝るということをはまさに敗北を意味し、その重大性が謝ることへの恐怖を増大させた。

と書いていて、SNSの傾向を深くは把握してない上にテレビもそれほど視聴してないので同意は簡単にできないものの、解が複数あり得るのに一つしかないことを前提としてるようなものや最初に断定による結論があって断定があるゆえに説明が説明になってないような文章ははてなはてな以外で目撃してるので(はてなを含めて)webでは議論によってより良い答えを導くのは難しいんじゃないか…とは思っていましたから「より良い答えを共創する」のは現状では難しいという指摘はうっすら理解できますし、言語をめぐる状況が「競技性のほうが顕著」という状態(つまり単純に敗者と勝者しか存在しないという単純な構造)になって敗者に異論は許されず発言権が無くそうなればテレビのように土下座を含め頭を下げることしか許されない空気がいつの間にかできているのなら、敗北≒謝ることの重大性や恐怖というのはうっすらなんですがなんだかわかります。

水野さんは文中の言葉を借りれば「ひとたび非を認めると徹底的に糾弾される」社会であっても相手の人格まで壊す謝罪を恐れる自分でありたい、と最後に書いていらしてそこはおおむね同意です。

なんだろ、水野さんのコラムを読んで、頭を下げることが特別なことになってる社会になってること・正しいとされるものしか許されないちょっと怖い世の中に突入してることを改めて知りました。いまさら気がつくのは私がかなり鈍いだけかもしれないのですが。