人というのは特徴を捉えるのが得意だったりします。ですから、人をけなすとき特徴的な目につきやすい欠点をけっこうあげつらうことができます。そのかわり褒めるときも同じです。何かが巧いときに、特徴的なところを褒めます。それ以外は巧かったとしても、特徴的なところを褒めちまうので、褒めるというのは難しかったりします。特徴的でない、説明しにくい部分を褒めるのは厄介です。もしかしたらそういう言葉の技術を私が(教養が無いので)知らないだけで、ほんとは厄介じゃないのかもしれませんが。
前にも書きましたが、私はそれほどたくさんの歌舞伎を観ているわけでもないので、へたなことはいえません。でもいちばんやすい席や壁によっかかりながらで20とか30とかそれくらいみるとうっすら気が付くことがあります。おそらく間のとり方や目線を切ったりテンポや抑揚のバランス、というのが重要です。どっかバランスを欠くと舞踊でもキレイであっても退屈してきますし、芝居でも感情をこめたりってのはそれがないと観てるほうは芝居に入れませんしてんで聞くに堪えなくなります。舞台がおそろしいのは、巧い人が居ると、へたな人がすごく目立つところです。亡くなられた團十郎丈は踊らせても芝居でも、どこそこがうまいということは非常に言葉にしにくいのですがもちろんとても巧い・安心して芝居の中へ入って行ける人でした。


古典というのがあります。古典ってなによっていうのはこれまた難しいのですが、歌舞伎でいうなら誰でも知ってるのは勧進帳助六であったりします。じゃあなぜ古典は演じられてるのか、もしかしたら答えは面白いからとか、いろんな返答が可能です。誰もそんなこと問うてませんが個人的に答えるとしたらひとつだけいえるのは役者が介添え役となって演目になってる登場人物の(できることならこうありたいっていう)生きざまを(創作であっても)みせてくれてるからでしょう。助六は江戸時代からずっとやってる演目で、研究され続け伝統という形で語り継がれ(おそらくそれは文字では伝えきれない部分があったはずで口伝でしか伝わらないこともあるんじゃないかと)、舞台で再現され続けてきました。その伝統というのを壊すことなく守り続けてきた・歌舞伎の土台を支え続けてきたのがたぶん團十郎丈です。


けさがたのめざましテレビで訃報を知って、一瞬手が止まっちまったんすけど、一昨年くらいからいまに続く日本を支えてきた人がどんどん他界して、この言葉を書くのは何度目だナウシカなのですが、惜しい人がまた一人いなくなっちまったきがします。