英語をあまりしゃべれないやつが考える英語のこと

きっと何度も書いていると思うのですが、大学生になって英語で「マクベス」をやりました。かなり影響を受けています。中高6年英語やってたし大学受験もなんとかなったのだから大学の英語もなんとかなるだろうという甘い幻想を「マクベス」は打ち砕くには充分で、たとえば言葉に複数の意味合いが込められてるのなんてざらでrumpという単語を臀部とも残飯ともとれたりしますし、魔女の「Fair is foul,and foul is fair」のように(劇場で公演するための作品なので文章にリズムがあり)韻を踏んだりしてる文章が頻出するので、それを生かそうとすると正直訳せっていっても辞書を漫然と引いただけでは適当な言葉がほんと見つからず、予習範囲を前にして気絶してるわけでもないけど時間だけがどんどん過ぎていっちまうことが何回もありました。でもって、あまりにも有名な「Fair is foul.foul is fair」のところ、セリフは続けてHover through the fog and filthyってあるので「filthy」のよごれた空気を生かして「きれいはきたない」とかなんとなくの訳ができてきます。最初はそう思っていました。でも読み進めると物語の骨格はすでにいた王殺しをおこなった新たな王が殺されるまでで、「王に対する血が流れた反逆」がまた別の「王に対する血が流れる反逆」をよびます。また登場人物が成功の裏でダーティな行為をした代償として苦しみもします。そして英国は道徳と法の分離があってないようなところが長く続いていたあいまいなところが持ち味の国です。日本語の意味する「きれい」とか「きたない」という単純なことではなく、意味的には正義は卑劣とかそんなふうにも読めないこともないので、「きれい」「きたない」が妥当とも思えないようになってきましたって、ここでマクベスの講義をしたいわけではありません。

熊本へ行ったときに内坪井の漱石の旧居が資料館になっていて見学しています。夏目金之助先生は松山時代は逐条解釈的に丁寧に細かく英語を教えてたものの、熊本時代は細かいところはともかくとして本を最初から最後まで読ませ、一冊読み通すことの面白さを伝えてた、なんてのを知りました。どちからというと私が大学時代にうけたマクベスの授業は夏目金之助先生の熊本時代に近かったわけで。もっともその後のおのれの人生の役に立ったか?と云われるとわかりません。マクベスの時代の言葉は実用英語にはあまり関係ありません。methinksなんていまはつかいませんし。強いていえば本を読むときになんべんも前のほうを読み返したり言葉の解釈について深く考えるようになっています。

いつものように話が横に素っ飛びます。

今月、株主になってる会社にどうしても行かねばならぬ用があって山梨の方向へ行ったとき、台風で中央線は高尾から西に被害が出ていて復旧工事のために高尾と相模湖の間の電車をかなり減らしていました。すべての電車をいったん高尾止まりにし、西に行く場合は乗り換えをしなければならなかったものの、高尾駅はアナウンスはすべて日本語です。海外からの訪日客がいて話しかけられて、河口湖へ行くというのでメモを作ってたどたどしい英語で説明しています。そのとき、高尾駅ホームには天狗がいるのですがずっと気になっていたらしく天狗をさしてあれはなんだ?と訊いてきました。薬王院という寺があって神仏習合の名残で飯綱権現も祀っててそのつながりで天狗が居る(ことになってる)のですが、一神教の人を前に神仏習合や眷属を英語で説明するのはどう考えても無理ゲーで、いちばん近いのはfairyと考えてguardianという言葉も使ってたどたどしい英語で説明したのですが、伝えたいことを英語に載せて満足に伝えられることができるか、と云ったらかなり怪しいです。なので話すといった英語の技能に関して私はあんまりえらいことは云えません。最近の新聞で、英語の教育が技能重視になってることも知ってます。たぶん、私のような英語を十全に駆使できない人間は少ないほうが良いはずです。

でもなんですが。

英語の技能はおそらく役に立つし大切だと思うものの、役に立つ技能を習得するのが学問かと云われるとどうだろう?と考えちまうところがあります。でもって役に立つ技能習得であれば正解があって、そして言葉は少なくて済みますから意図せず言語統制・思想統制が成り立ちかねませんって、おれが書くと誇大妄想的になるのですが。話をもとに戻すと、役に立たないかもしれないけど日頃使わない言葉が出てきて、であるからこそ辞書を片手に言葉を探しどれが妥当だろうとあれこれ思索し、想像力を働かせるのも大事なんじゃないのかなあ、と思うのですが、どうだろ。それはてめえが経験したからそう思うだけだろ、と云われてしまえばそうかもしれないのですが。