先行きが見えない社会における「正しさ」

あ、またか、という話をします。私は大学の英語でマクベスをやりました。最初のほうに有名な「Fair is foul.foul is fair」のという魔女のセリフがあります。辞書をひけば「きれいはきたない」とかなんとなくの訳ができてきます。多少のネタバレをお許しいただきたいのですが、物語は「王に対する血が流れた反逆」がまた別の新たな「王に対する血が流れる反逆」をよびます。同じ王殺しでも殺された王の息子が関係すると読むほうの印象はまったく異なります。物語を通して考えると魔女のセリフは日本語の意味する「きれい」とか「きたない」という単純なことではないのではないか、意味的には殺された先帝の息子の王殺しは「正しい」=「人殺しで邪悪」とかそんなふうにも読めないこともないので、「きれい」「きたない」が妥当とも思えないようになってきました。英語の訳は横に置いておくとしてマクベスを読んだことで善悪というのは見方によって逆転するのではないか、ということを察しています。以降「正義」とか「正しさ」的なものにかなり懐疑的になっています。

いつものように話は素っ飛びます。

家に居るように呼びかけられてる社会で私は勤務先の都合で手洗い励行マスク着用の上で出社しています。それについて住んでる街で顔見知りの人に何か言われたことはありません(影でどういわれてるかはわかりませんが)。営業を継続したり他県へ移動する人も私のように何かしら仕事の事情があるのでは、とか思っていました。しかしあちこちで営業の自粛をしなかった店舗への脅しであるとか他県ナンバー狩りの動きを知って、それらの動きは「ちょっとおっかない」と感じていました。と同時に、多数と異なる動きに対しての批判や糾弾する原動力ってなんだろう?という疑問がうっすらありました。

でもって、23日付毎日新聞東京版夕刊に真宗大谷派の僧侶(玄照寺・瓜生崇住職)の方のインタビューが載っていて、PCR検査などに関して力強く明確なメッセージを発する人がメディアで重用されることを含めてこのコロナ禍の社会の動きに関して

敵をはっきりし指摘し、圧倒的な正しさで導いていくという構図を作るのです。人間は先行きが見えなくなったとき、「正しい」メッセージにひかれ、依存していきますが、その表れでしょう。自粛警察なんていう話も聞きますが、正しいことをして人を救うことで自分の存在を確認したいのです。

カルトにはまる人の心理も同じです。自分がこの先何が正しいのか分からず迷いながら死んでいくことに耐えられない。

 と述べてて、先行きがわからないから「正しい」とされるものにひかれ、正しいことをすることでおのれの存在を確認をする、というのは、持っていた疑問の解としてはとても腑に落ちると同時に目からうろこでした。おそらくマクベスを読んで「正しさ」に懐疑を持たなかったら・「正しいというものなんて存在するの?」的な思考に陥ってなかったら、いまごろは正しいと思うものに熱中して、もしかしたら自粛警察の一員になってたかもしれません。文学に救われた!とまでは言いませんが、原文を前に辞書を片手に苦労した甲斐があったかな、的なことは考えちまいました…っててめえのことはともかく。

記事では迷いや不安を是認することの大事さも述べていたのですが、その迷いや不安が今の世の中ではどちらかというとネガティブなものと捉えられがちのはずで、そのネガティブを消去するために「正しさ」にひかれる人が出てくるのかもしれず、だとすると、わりと根は深い気が。

私はわりと「正しさがなかったら死ぬの?」的なノーテンキで生きてきたのですが、なんだろ、大げさかも知れぬものの、「正しさ」の見えてなかったおっかない部分を23日の夕刊で改めて思い知った気がします。