夏休みを引きずる時間

きっと繰り返し書いてると思うのですが、大学まで行かせてもらったもののあまり裕福な家庭に育ったわけではありません。それを恥じることはまったく無かったし親しい友人は知ってても別段侮蔑やからかいの対象にはならなかったのですが、その代わり友人は誰一人として夏には遊びに来ませんでした。家にエアコンというかクーラーが無かったからです(もちろん扇風機や氷枕はあった)。ただ90年代前半までの多摩地方は連日30度越えなんてことはあまりなかったはずで、いまの気象条件でエアコンなしで夏を暮らせと言われたらたぶんムリです。

夏休みになるとひとりで勉強する場合は家だと暑いので昼間は冷房のある図書館や市民会館の自習室を利用していました。夜は家でパンツ一丁で扇風機にあたりながらです。図書館の自習室の場合、目標を決めてそれをクリアしたら自主的に終了し(そこで自主的に終了せずもうちょっと頑張ってれば今頃このような明晰ではない文書を書かずに違う道を行ってかもしれませんがそれはともかく)閉館ぎりぎりまで階下の開架式書架へ行ってました。そこで読んでたのが辻井喬の「ゆく人なしに」や向田邦子の「あ・うん」などです。目標をクリアしてからの閉館までの限られた時間なので読み易い文体であっても一気呵成には読めません。借りだしたら絶対勉強そっちのけで読むに決まってるので閉館のチャイムが鳴ったら読んだページに本についてるしおり紐を挟んで戻してました。図書館に行くたびに集中して目標をクリアするように頑張り、階下の開架式書架へ行きしおり紐を挟んだページからちょっとずつ読み進める、ということをしていました。

話はいつものように横に素っ飛びます。

最近読んだ本の登場人物の一人が「できることならすべてをシャットアウトして本は一気呵成に本を読みたい派」でした。一気呵成に読んだらそれじゃ「どうなるんだろう?」と期待しながら読み進める楽しみが1回しかないんじゃ?それじゃもったいないじゃん…などと、登場人物をdisるつもりはないものの私はなぜかそのとき思っちまってて、私は何回かに分けて読んでもまったく平気でむしろそのほうが多いです。でも自分のその思考に若干の違和感があって、そしてなんでもったいないと思うのかは暫くわからずにいました。先日、乗換駅に着いたので何回かに分けて読んでいるその本に(紐ではないけど)しおりを挟んでいるときに、何回かに分けて読む癖を知らず知らずのうちに刷り込んでいたのはもしかして高校生の夏休みの開架式書架での経験だったのではないか、ということに気が付きました。でもって、何回かに分けて読むことでどうなるんだろうと思いながらページを開く経験を読書体験が浅いときから重ねてるうちにそれがいちばん至福の時間だと思い込んでいるのかもと気が付いています。なので一気呵成に読んだらつまんないんじゃ?的な思考になったのかもなんすが。個人的なことなので、だからなんだよって云われればそれまでなんですけど。

はてな今週のお題が「夏休み」なのですが、長期の夏休みなどは夢のまた夢です。でも四十なかばのおっさんでありながら本を読む時間だけは高校生のときの長期の夏休みをいまだ引きずっています。