本屋の記憶

まとまりのないことを書きます。

山と渓谷という雑誌が月の中頃の発売で、死んだ父から言われて昔住んでいた街ではそれを買いに本屋へ行っていました。お駄賃代わりに鉄道雑誌をちょっと目を通す・立ち読みするのが常でした。鉄道ファンというのは図書館に入ってて読めたもののそれ以外は目を通す機会がなかったのです。もちろん小学生の頃に毎月鉄道趣味雑誌を買うだけの余裕はありません。ほんとはお金を出して読むべきなのにそれをしないで読んでいるという自覚は小学生なりにあって、「どこかやってはいけないことをしている」意識が抜けずにいました。いまでも立ち読みは「どこかやってはいけないことをしている」意識がちょっとだけあります。有体物ではない情報を脳内に得て外に持ち出す立ち読みは罪にならないと知りつつ引き摺ってるのはおかしいかもしれませんが。

記憶があいまいなのだけどたぶん10代半ばに手塚治虫火の鳥をその小さいころから通っていた本屋で買っていて・読んでいて、そのなかに登場人物が焚火を前に衣類を脱ぎ捨てたシーンがあって・足だけ描かれていて、(もちろんその頃はまだ童貞で処女ではあったのだけど)それが何を意味するかはうっすらと理解できてしまい、慌てています。いまから思えば噴飯ものなのだけど、そういうものを読んでいることを他人に知られることをなぜか恐れていました。以降、辞書とかチャート式の参考書とかそこで買っても、マンガとかはその店では買わずに駿河台の病院にほど近い神保町の本屋で買うようになっています。確実にエロさがあるとわかってる本も神保町で買ってるのですが、途中で検問に引っかかって見知らぬ警察の人に「中身見せて?」と言われたらいやだなあ、と思っていました。と、同時に高校生の頃には、知られたくないし隠さなければと思えば思うほど、性的なものに惹かれてることを意識するようになっていました。

たぶん前にも書いたかもなのですが、あまり裕福な家庭ではなかったので読みたい本はすべて買えたわけではありませんでした。授業などで読んでおいた方が・目を通しておいた方が良い本があって図書館にないとき、バイト先が神保町に近かったのを奇貨として、大型書店で読んでおきたい部分を読んで頭の中に入れ、外でそれをメモ書きする、ということをしています(この経験から読むという行為は単に読むだけでなくそこに書いてあることを理解するという意識が強くなってます)。立ち読みという小学生の時に自覚した「やってはいけないこと」を続けてたのでやはり後ろめたさが増幅してありました。なので、社会に出てお金に余裕ができてからは名古屋に支店があったせいもあって名古屋にいた頃は贖罪として三省堂をよく使っていました。

最近読んでいた青ブタシリーズは表紙で目がぱっちり開いたどちらかというとアニメっぽいキャラクターがミニスカ姿で悪魔の尾をはやしてたり、本の名前に「シスコン」とか「バニーガール」などと入っています。本屋さんもプロですから「この人こんな本を買ってるんだあ」なんて顔は一切出さないと思うのですが、いつも使う本屋で買うのには相当抵抗があって、ポイントがたまらなくてもいいので隠れるようにいつもと違う本屋以外を転々として揃えています。たぶんこれも書いたかもしれません。

いつものように話がすっ飛びます。

最近読んだマンガの中で本屋の店番をしてる主人公がでてくる登場人物の読書傾向をさらさらっと触れてて、咄嗟に、ちょっと怖いな、フィクションですから構わないのですが読書傾向をほかの人に知られるのはリアルだったらイヤだな、とおもっちまっています。ただ読書傾向をほかの人に知られるのが怖い、というのは他人に紹介できるような明るくて健康的で健全な教養を感じさせる読書生活を送ってこなかったから、かな、と。でもって、私をカタチづくった何割かは本です。その本を買った本屋について書こうとすると、明るくて健康的で健全な教養を感じさせる読書をしてきたわけではないからか、「うしろめたさ」と「読んでる本を知られたくないし隠さねばいけない」という記憶がついてまわります。でもそれらを含めて、暗く健康的でなく不健全であっても、おのれをカタチづくってるような気がしてならなかったり。

うむ、まとまらねえ。