うしろめたさの話(駿河台下の三省堂の記憶について)

私は大人になるまでお茶の水ニコライ堂のそばの病院に定期的にお世話になっていました。ニコライ堂のあるあたりを駿河台といい、駿河台からゆるい坂を下るってゆくと駿河台下という名のついた交差点があります。

その駿河台下の交差点には三省堂書店という本屋があり、紅顔の美少年…じゃねえ、どってことない少年が、眼科の診療のあとによく吸い寄せられていました。鉄道に興味があったので最初は鉄道関係の、次いで宇宙関係に興味があったので宇宙関係の書籍のある棚を見つけ、しかしそれらの本を買えるほど無尽蔵にお小遣いがあるわけではありませんから・治療が予想外の費用になることを考えて多めの現金を渡してもらってましたがそれを流用するわけにもゆきませんから、なので書籍や雑誌をちらっと眺めて終わりです。でも最初のうちはまだ知らぬ知識がここに来れば吸収できるのだと思えたらそれだけで満足だったのです。本人が満足でも金銭を落としていませんから「みてるだけ」のイヤな客なはずで、三省堂にずっと小さなうしろめたさを抱えて育っています。高校になって小遣いの額が上がり小説を読みだすようになると、鉄道や宇宙の本を眺めてた頃のうしろめたさの影響から、やりくりしてはたまに三省堂で買うようになりましたがその時点ではうしろめたさは完全に消えてませんでした。

大学生になるとむしろうしろめたさが増大します。授業においてさらっと触れるけど質問したりすると実はすっごく奥が深いテーマにぶちあたるようになると気になったり目を通しておきたい本、というのが必然的に出てきます。大学生の頃には働いていましたが資金的にピンチのときがあるのでタイムリーにそれらの本をすべて買えたわけではありません。まず頼りにしたのが大学の図書館で次いで都立の図書館で、それがダメだとバイト先が近かったこともあって神保町の本屋を回っていました。本屋で目的の本を探し読んでいるふりをしてそこに書いてあることを・要旨を必死に頭の中に入れ、店を出てからメモるのです。同じ店に連続して行くと怪しまれるので日によって行くところを変えていましたが、白状すると三省堂はそのひとつでした。もちろんお金に余裕ができたときに三省堂などにお金を落しています。余談ですが三省堂などでそんなことをやっていたので、いまでも本を読むときはわりと集中してて紅茶を飲みながらとか音楽を聴きながら本を読むということが出来ませんし、読むという行為は単に読むだけでなくそこに書いてあることを理解しておのれの言葉で再構築するという意識が強くなってます。

資金的に余裕が出来た社会人になってしばらくの間は大学生時代に増大したうしろめたさをまだ抱えてたので、たとえば名古屋に居たときには名駅のテルミナの三省堂で買い物をし、少しずつうしろめたさを返済してゆきました。いまはうしろめたさはありませんが東京駅の三省堂はたまに利用します。でもって、本屋は私にとって大事な場所なので電子書籍は買いませんしいまだアマゾン童貞であり続けています。

来月、駿河台下の三省堂が老朽化による建て替えのため一時閉店になります。それを今週知って、過去の記憶が散在してる場所であるのでなんだか喪失感があったり。うしろめたさがあった場所ほど喪失感がデカいってこと、ないっすかね、ないかもですが。