教えるということ

東京育ちの人間が京阪神へ行くと驚くもののひとつが語尾変化です。東京だったら「がんばれ」という言葉であったら「がんばれよ」とか「がんばって」くらいしか語尾変化はありません。あと「がんばりなさい」とか「がんばってください」です。なぜそうなったかは謎なのですが耳にした限りの言葉を書くと「がんばりぃ」「がんばりぃな」「がんばりや」「がんばるんやで」「がんばってな」「がんばってぇな」「がんばらんかい」などに加えて(かつて直属の上司が京都出身だったのでよくつかってたのですが)「おきばりやす」系があります。社会人になって大阪に放り込まれてお世話になった・あれこれ指導してもらったKさんというひとがいるのですが、何かをKさんが問うてこちらが巧い具合に答えられると「お前、俺より頭いいからって調子にのりやがって」といい「でもな、ええこと教えといたるわ」といってさらなる飛躍のヒントをさりげなく云い「ま、がんばりや」。で、巧く答えられないと「お前、俺より顔がいいからって調子にのりやがって」と小さな雷が落ちて(嘆くように)「もうちょいがんばりぃな」の言葉のあとに妥当な解を教えて貰ってました。励ましには変わりないのですが標準語で書けばそっけない「がんばれ」というつきはなした言葉が語尾変化でほんとに叱咤激励のニュアンスになることを思い知りましたって、語尾変化の話をしたいのではなくて。
経験を積んで数年すると教えてもらっていた立場から教えなければならない立場になることがあります。不思議なもので教える立場になるというのは「おれもいっちょ前になったのかな」と思ったことがあります。しかしすぐにそれが錯覚であると気がつきます。Aについて教えた時にAだけにすればいのに親切かなあと考えてなんとなく付随したことを教えたくなる誘惑に負け、やっちまったことがあります。しかしその親切は相手が混乱するだけで、情報がたくさんあると人はわりと混乱しやすい、ってことをそのときはじめて知りました。穴が指一本入ったからってそのうちもっとでかいのをいれることになるんだしといきなり三本入れたら痛がるのと同じですってたとえがあいかわらず下品なんすけど、たぶん何事もいきなりねじ込むのはムリなのです。それがわからなかったんだからぜんぜんいっちょ前ではありません。教えるほうは教えられるほうの力量を見極めたり親切心を起こす誘惑に耐える忍耐・相手に合わせる忍耐が必要なんじゃないかと経験したからわかるのですが、そのときはわからなかったわけで。ふりかえればKさんは質問を通して叱咤激励しつつこちらの理解度をチェックしつつ混乱しないように忍耐強く教えるっていうことをしていたわけで、教職課程をとったわけではないのでヘタなことは云えないのですけど教えるということの技術的な本質をなんだか悟った気がします。いまでも教える立場にたったときは混乱しないように要点を絞って人に教えつつ質問を通じて理解度をチェックしつつ叱咤激励しながら、というKさんのやり方を常にできるわけではないけどなるべく踏襲しています。
はてな今週のお題が「#わたしの自立」です。同じ轍を踏むというと悪いたとえになっちまうのですが、教えるということに関しては、自ら模索せず・自立せず、まったく影響を受けたまま同じ轍なぞっています。素敵なストーリーを投稿してくださいなんてかいてあったけどちっとも素敵にはなんないんだよなあ。