アウティングのこと

以前勤務さきに、女の人の名前はそんなに憶えないけど男の人はきっちり覚えていて声をかける、という先輩がいました。最初はそんなこと気がつかなかったのですが、「くすだっち(仮)オハヨー」とニコニコいうものの、女性陣にはあんまり氏名を云って声をかけないのです。最初、女性陣がそれに気がついて、いつの間にかあの人はゲイではないか、ということになっていました。楠田くん気をつけてねっていう注進があったのですが、周囲の女の人はその人がゲイであるということを疑っていました。嫌悪感をむき出しではないのですが、ゲイという存在に対して好奇心でわりと面白半分に好き勝手いうのを目の当たりにして≒おそらく同格とみていないのを目の当たりにして私は勤務先ではカミングアウトということを考えなくなりました。そのころと配属先は変わりましたがあんなの相手にしなくちゃなのか、ううむ、めんどくせえ、というのが先に来ます。これを書くと魔性の男っぽいのですが、告白してきた複数の同性にはおのれの性のことを告げたことはありますが、積極的に明らかにしたことはなく、性のことは墓場まで持って行くつもりですっててめえのことはともかく。
性というのはおそらく人間の本能のようなものに関係しています。でもって人間自身の品位が反発することによって羞恥心って形成されます。そこらへんが性の非公然原則につながります。ですから性に関して公然と振舞うべきではないという規範のある社会が長く続いています。その規範意識があればあるほどセクシュアリティに関して、たとえば同性愛であるとか両性愛であるとかについて人は表沙汰にしません。もちろん規範といっても明文化されてないからセクシュアリティに関して表沙汰にしていい自由があります。と同時に表沙汰にしない自由もあるはずなのです。表沙汰にしないセクシュアリティのことを他人が暴露していいか、といったらそんなことはありません。本人の意思に反して暴露するということはその人を人として見ていないのと同義です。
テレビに出ている俳優さんが引退を表明した、という報道を知りました。山西さんとか水谷さんの横にいて喰われることもないのをチラ見したことがあって才能がないわけではないはずなので「もったいないなあ」という意識がありました。が、セクシュアリティに関して明らかにされたことを含めてのことと知って、なんかこう、才能なければ容貌も違うのですが、世の中は同性愛傾向を持つ人をやはり人として見てないのだろうなと絶望的になってきたのですが。