古い社会ではルールみたいなものがあってそれを遵守するように求められるわけっす。それができないとどこか人間扱いされません。私の勤務先は挨拶です。ひょっとしたら体育会系の会社ってにたよなもんかもですが。


はたから見るとそれはひどく変なのですが古くからそこにいる人が後から来た人に対してさも当たり前のようにしきたりみたいなものというか無言のルールを当てはめるようなことを言う、ってことが古い社会ではけっこうあります。それをいちばん感じるのがゲイの世界です。女性がだめではなかった私の場合それをいうとゲイ一筋ではないことを軽く皮肉られたりってことがありました。女の前でも男の前でも淫乱なんじゃないの、とかのことをいろいろいわれるわけです。なんというか悪意があるのかどうかはわからぬものの、そういうことをゲイ一筋じゃないなら言って良いみたいなゲイ一筋であることが崇高である、みたいなルールを感じたわけです。別に冷静に考えるとゲイ一筋であることにどこに優位性があるのかっていったら、無いんじゃないか、って思います。でもじわじわと、いわれたことは影響してます。私はいまでもゲイ一筋じゃないのでセクシュアリティを語る上でどこか卑屈なところがあります。
で、ゲイの世界は自分にとっての理想郷ではなかった、ってのがなんとなくわかったので、ゲイタウンってのにはあまり足を運んでません。いまでも昔居た名古屋の一部以外はしりませんし東京在住ですが新宿は伊勢丹は行っても2丁目は知りません。
ほんと推測に過ぎないのですがそうやってゲイ一筋が崇高であるという価値観を大事に守ってゲイの部族社会は持続してきた歴史があるんじゃないか、ゲイの部族社会はそういった価値観の貞操教育?がなされてたのではないか、って疑ってます。
なにかに似てるよな、と思ったのが嫁姑問題です。先代筋のいうことに従って良い嫁であることが求められ皮肉や小言をいうことで教育を施すはずです。ゲイの世界もそんなところあるとおもう。すでにそこに居る人にとって「好ましい存在」が良い、っていうところ。たぶん理屈じゃないんすよね。
噂でしか知らないものの嫁姑問題もそうなんじゃないか、と思うのですが好ましい存在じゃない「よい嫁」じゃないと「いまどきの嫁は」って否定の対象のようにいわれるとおもうのですが、およそゲイの世界も似たようなもんだと思う。ゲイ一筋の人からすると女性も抱けるゲイ≒バイというのはどこか格下というか否定の対象になりがちな気がします。


挨拶なんかは別にどってことないんすけど、ゲイとかに限らず一般論として古い社会に踏み込まざるを得ないとき、理屈じゃない相手のルールに勝手に乗せられてそこで一方的に評価されたり、相手の土俵で闘わざるを得なかったり、ってことがあります。そのたびにいらいらしますし、そのたびにどこかしんどいっす。