いえぬ秘密とアウティングに関して

わりとしんどいことのひとつが秘密を持つことです。人は秘密を持ってるとしんどいので「ここだけの秘密」とかいって誰かに言いたくなります。聞いたほうもしんどいので誰かに言うことがあり得ます。それがなんども続くといわゆる公然の秘密になるはずです。身近な社会を眺めていてつくづく思うのですが、誰もが秘密に耐えられるかといったらたぶんそんなことはないはずです。秘密というのを保持できそうな人以外は私は自分の秘密を打ち明けたことはありません。同性から告白された場合は「ああこの人は秘密をずっと保持してきた人だ」と察して秘密にすべきおのれの性について告げますが、秘密を保持してきたかどうかがわからない異性におのれの性について告げたことはゼロではないけどあまりありません。私はいわゆる性的マイノリティに属しますが、それについて他人がどう受け取るかについて、コントロールできるとは思ってないからです。って私のことはどうでもよくて。

性というのはおそらく人間の本能のようなものに関係しています。でもって性に関して人間自身の品位が反発することによって羞恥心って形成されます。そこらへんが性の非公然原則につながります。日本においてはそれが強く、性に関して公然と振舞うべきではないという明文化されれない規範のある社会が長く続いています。その規範が意識下に染み込んでいればいるほどたとえば(同性愛であるとか両性愛であるとかの)セクシュアリティに関しても表沙汰にしにくくなります。もちろん規範といっても明文化されてないですから誰もがセクシュアリティに関して表沙汰にしていい自由があります。と同時にコインの裏表で表沙汰にしない自由もあるはずなのです。

話がいくらか厄介になるのですが、セクシュアリティに関して表沙汰にしてない秘密を教えられたとします。その秘密を保持するのがしんどい場合、表沙汰にしないセクシュアリティのことを第三者に公開していいか、といったらそんなことはないはずです。条例は別としてなにかしらの法律にそんな条項があるわけではありませんから明文はありません。しかし本人が表沙汰にしていないことに関して第三者が秘密を公開するということはその人を人として見ていないのと同義なのではないか、と思っていました。

数年前、表沙汰にしていないことを知らされた当事者がそのことを第三者に暴露して(これをアウティングというのですが)もう一方の当事者が転落死した事件がありました。当事者間では和解が成立してて大学との訴訟が継続していたのですが、その裁判においてアウティングについて(当事者が葛藤を抱えていたとしてもそれは正当化できず)「人格権かプライバシー権を著しく侵害する許されざる行為」と東京高裁が25日付で判断しています。原告側は上告しない意向なのでこの判断が定着するかもしれません。ずっと上記のようなことを考えていたので高裁の判断は理解できますしとても腑に落ちるし、妥当かな、とは思っています。

判決は判決として以下、逆の立場に立ったとしての答えのない疑問なのですが「人は抱えきれない秘密を抱えてしんどいとき誰にも言えないとなると果たしてどうすればいいのか」が、ちょっとわからなかったりします。