異質の排除の空気

特定のものが好きな人、というのは同じ知識・情熱を持ってるか確認したい、ということがあったりします。知識がたくさんあることと、それが好きであることというのは一緒ではないはずなんだけど、なんとなく「好きであること≒知識豊富」の変なモノサシがあるような気がしています。東海林さだおさんだったかそれらをたしか「ドーダ主義」といってて、「どうだ!すげえだろう」といえることを確認しあい、同質であることのの確認をするのです。ドーダ主義が蔓延してる環境、言い換えれば同質の人が多数を占める環境において他人と同じでないと、ヘタすると「異質なもの」というのは存在しないか排除すべきものになります。あいつはまだまだだね、みたいな。そんなふうに「好き」であるという対象物を持つと平気で「異質なもの」を排除したくなるのではないか、と私は思っています。
埼玉のチームのサッカーの試合の応援席で日本人以外が入ってこないようにメッセージが書かれた幕が張られた・海外からの人が増えて応援の統制がとれなくなってきてるのでそれを避けたいがためにやった、というのを知って、漠然と想起したのは、上に書いたような同質な集団の中での異質なものの排除です。神宮球場大学野球のだと出身校の応援歌というのをうたいます。歌というのはなんとなく高揚感をかきたてるもので、妙な一体感がでたりします。応援歌もうたうでしょうから応援の統制をとりたいので異質なものをさけたい、ってのはまったく判らないでもないです。が、排除する理由には苦しいとおもいます。でも今回、好きなものの前で冷静さを欠いたのか、排他的なところがでちまったのかなあ、と。
厄介なのは、異質なものとどうつきあうか、ということで、いうのは簡単なようでほんとは難しいことのような気がしています。この国は異質なものをくくってそれでおわり、というところがあります。わかりやすい例でいえば、オネエをオネエというくくりでどういうものかを理解せずに異質なままにしておく・美人やイケメンというのを美人やイケメンというのでくくって美人以外と同列に並べず異質なままにしておく、ということをしています。国籍の問題ではありませんが、個人的に排除されやすい、異質なところがある人間からすると、やはり難しいのではないか、などと思っちまうのですが。