「もっとコロッケな日本語を」

社会人になって資金に余裕ができて本を買って読みたいと思いつつも本をたくさんは読めてはいません。しかし少ないながらも読んだ本があとから効いてくることがあります。

東海林さだおさんの「もっとコロッケな日本語を」(文春文庫・2006)もそのひとつです。この本の中にドーダ理論という人類の会話の何割かは自慢話であるという説が出てきます。ドーダおれすげーだろ、というところからドーダです。学歴や忙しさ、出身県、勇気、教養、経済力などの「ドーダ」がさりげなく会話などに織り込まれるものの、必ずしもそれを見せつけられたほうが羨ましいとは思えません。本を読む限り最初は笑えるけどそのうちなんとなくドーダ的振る舞いをする人が嫌な奴に思えてきます。でもって読んでからは他人の話を聞くと・聞いてるふりをして自慢が入ってくると、「ああドーダのスイッチが入ってんな」とか観察するようになっています。こう書くとおれの方がヤな奴です。東海林さんのドーダ理論を基に鹿島茂さんが応用して歴史上の人物のドーダおれすげーだろ的な自己愛の切り口から「ドーダの近代史」(朝日新聞・2007)を上梓してます。ドーダ的自己愛が人を形成し歴史をも動かすと知りつつも、東海林さんが羅列したいわゆるドーダ的な振る舞いはカッコ悪いな、というのがあるので、意識してそういう振る舞いはしないようにしています(できてるかどうかは別として)。ちっとも教養を感じさせる本ではありませんが、でもおのれをかたちづくった本のひとつです。

話はいつものように素っ飛びます。

☆を頂いた方の記事を読ませていただいて「マウントをとる」≒相対的に優位に立ちたがる、ことに関してにわかに勉強して考えてみたものの、やはり理解は浅いです。今から考えればあれはマウントを取られてたのかな、というのはあります。でもって理解は浅いなりに読んできた本を踏まえて考えると、マウントをとりたがる場合というか優位に立ちたがるというのはいわゆる自慢したい「ドーダ」というのがやはりあるのかな、と思いました。でもマウントをとったとしてもそれは他人が居てはじめて成立し他人に寄生にしたものなので・他人がいなければ成立しないもろいもので(ドーダも他人がいないと成立しない)、マウントをとりたがる人というのはひとりで独立して二足歩行ができない弱い人なのではないか、と。

「ドーダすげーだろ」といいたくなるような膨れ上がる自己愛を東海林さんのおかげで私は途中から気が付いて意図的にdeleteしてるつもりです(できてるかどうかは別として)。本を読まなかったらマウント野郎になってたかも。おのれの幸運にちょっと感謝したいです。

が、でも書いてて気が付いたのですがこのエントリは理屈の上では読む人が居るからこそ成り立ってるわけでこれはカタチを変えた「ドーダ」というか運が良かった自慢なっちまってるのかなあ、という気が。もしかしたら私も他人に寄生した二足歩行できない弱いやつかもしれなかったり。