排他と布教

オタクとよばれる場合、どちらかというと同じ趣味でアツく語りたい、ってことが多くて、場合によってはどれだけそれが好きかとか知識量豊富か・知識量が多いことをお互い確認しあうかという競争になってて、傍から様子を窺うと細かすぎて濃すぎてなにがなんだかわからないことってのがあります。ここらへんアイドルとかアニメとか、他人が話してるのを聞いて、うっすら「あ、ついていけない」と思ったことが何度もあります。
東海林さだおさんはその知識の豊富さなどを誇示する姿勢をドーダ主義といっていた記憶があるのですが、このドーダ主義というのはデータ偏重に結びつきやすいと思ってて、本来あんまり関係ないはずの知識データ量の豊富さがその分野がどれだけ好きかの指標になっちまってるところがあります。本来あんまり関係ないはずの、というのはデータを知ってるから偉いか、といったら必ずしもそうではないからです。たとえば野球に関するデータは野球をみるとき・するときに予想に大変役に立ちますが、ラッキーセブンという語源が七回にひっくり返りやすいところからきてるんすが、データに関係なくどちらに転ぶかわからないから野球は面白いのです。データというのはほんと単純にデータに過ぎず、データに関係なく事態は進展することがあって(ここらへん競艇好きな先輩から競艇について必要以上にレクチャーを受けてなおさらそう思うようになったんすけどそれは兎も角)「だからなんなの?」という側面があります。データ自慢は巨根とか巨乳を自慢するようなもので、特定の個人に対して劣等感を植え付けるだけに過ぎず、巨根や巨乳が素晴らしいかってのと同じくらいデータや知識が素晴らしいかどうか・だからなんなの?は判断が分かれるのではないかと。
もっともこの知識が豊富なときとかデータをもとに話をしてるほうは楽しくて自覚ないままにドーダ主義になってることがあって、目の前の相手がそのドーダ主義についていけない場合、話を聞いててもああオタクというのは排他的なんだな、という印象を与えかねません。気を付けてしゃべってるのですが、うまくいってるかどうかはわからないのですけども。


いくらか自慢っぽいドーダ主義が入ることもあるんだけど魚釣りが好きな後輩がいかに釣りが面白いか、ということをたまに話すので、うーなんだかおもしろそうだな、と思ったことがないわけでもないっす。関東近県の川にピラニアがいたとか、ほんまかいなと思うのだけど、生態系の話もできる人なので、聞いてて興味深いってのもあるんすが。どこか根っこに釣りの面白さを布教しようってのがあるような気がしてます。
基本、趣味というのは一定の分野を極めることのはずで、その分野に詳しくなることなんだと思うのだけど、そこでドーダ主義がでて排他に向うか、理解を深めてもらうために面白さの布教をはじめるか、ひとによって違ってて、趣味の世界とかオタクでも二種類いるよなー、と。その分かれ目は面白いことに対する、その人の地の部分がそのままでるんだろうか、なんて思っちまうのですけども。
単純に会話から推測してるだけで、あってるかどうかはわかりませんが。