二十の頃の分岐点

けっして裕福な家に育ったわけではないので書くとおのれがいくらかみじめになるのだけど、大学生時代に欲しいと思った本が自由にすべて手に入ったわけではありませんでした。なので大学からバイト先まで地下鉄で2駅ほどなので歩けないことはないのでできれば歩いてバイト先から支給された交通費を浮かせていたりしました。いわゆる基本書と呼ばれる本のほかに目を通しておいたほうが良いほかの本のページをそれとなく知るとそれを買いたいのですが交通費を浮かせたお金では足りないときは図書館へ通ったりしています。

大学の図書館になくて日比谷の図書館へゆきでもそこではコピーすると記憶に間違えなければ30円くらい取られて浮かせた交通費を充当しながら「高いなあ…」と感じてて、ほんとにコピーするのは最低限にとどめて要点をまとめてノートにメモ書きしたりとかしていました。そのときの感覚はいまでも忘れることはできませんって、貧乏自慢をしたいわけではなくて。

大江健三郎さんがノーベル賞を得てそれについて中島梓さんが(大江健三郎さんを救ったのは光ちゃんの音楽であったことに危機感を持ち一文学者を救わなかった文学は何のために存在してるのか?という根源的な疑問を呈した)「文学を殺したのはだあれ?私だわ、と大江健三郎はいった」という評論を書いてて、あほうがく部生が文学なんてわかりゃしないのにそれを偶然読み、中島梓という人に興味を持っています。交通費をやりくりして買った中島さんの本の一つが「コミュニケーション不全症候群(1991・筑摩書房)」という本です。

本作はオタク文化が(社会の常識ではなくオタクとして知ってるべき知識を知らないことはオタク文化のなかでは顰蹙を買うことなどを挙げたうえで)同質性を持つ仲間同士で現実の社会を拒絶しつつ疑似現実的代替の社会を作っていることを実例をまじえて紹介しながらそれはそれで生存のための適応の方法の一つと理解をしめしつつ、オタク社会は共感と共鳴と共同幻想の共有をそこで求めていることを紹介しています。またダイエットも「体重の軽い方が人間としての価値が高い」という共同幻想に裏打ちされ、成功したものは勝者でそこから離脱すれば白眼視されかねないことになってる90年代初頭の社会の状態に警鐘を鳴らしています。で、オタク文化やダイエットのそれらの根っこにあるのが、共感や共鳴を通して・共同幻想を通して喝采してほしい、他人に「愛されたい」他人に「見てほしい」とだけ望む姿と喝破し、「子供のような柔軟性を持つ大人」が増えればいいものの「大人のずる賢さとエゴイズムを身に着けた無責任な子供」が増えるのではないかと危惧し、粗くいえばそれらの状況を打破・克服するのは個人の勇気でしかないという結論に至ります。それらの指摘や予測があってるかどうかは横に置いておくとして、本を買ったのは記憶に間違えなければ二十歳の頃です。

本作を読んで私は他人に「愛されたい」とか他人に「見てほしい」と望む姿についての記述が強烈に印象に残り、それらは嫌悪すべきものなのかな、と思って意図的に封印してるところがあります。体重も大幅に増えもしなければ大幅に減りもしてないので結果としてダイエットとも無縁で共同幻想に属さず、働きながら大学へ行きそのあとも仕事や両親の闘病や相続やあんまり人には言えない恋愛があってアニメもあんまり視聴しないしマンガも読まず本もたくさんは読まず文学作品にも触れず、時間的な制限からオタクっぽいことはさしてしていませんから共鳴や共感に満ちたオタク社会に棲まなかったことを奇貨としてその封印が成り立っています。いまでも同性の好きな人が一人いるのでその人とあと必要最小限の周囲の人と差異の確認を含めた意思疎通ができてれば共感も共鳴もいいやと割り切ってています。そういう状況に身を置いたので「子供のような柔軟性を持つ大人」はムリでも「大人のずる賢さとエゴイズムを身に着けた無責任な子供」にはならずに済んだ気はします。

でもなんですが。

わたしは絶対使いませんがいま「わかりみ」という言葉があるようにいま共感と共鳴がオタク社会を超えて普遍的になりつつある世の中では共感や共鳴を意識しない私のような存在はこの先孤立するでしょうし、なにごとも知識や読書の量が人の優劣の判断材料になりかねない昨今の世の中では知識量や読書量が少ない私はおそらく底辺に存在するはずです。去年、青ブタとcitrusを視聴して、アニメって案外溺れると楽しいなと思ってしまったせいもあって、宝の山を素通りしてたのかな、という意識もちょっとだけあります。

はてな今週のお題が「二十歳」なのですが、いまのわたしに至る分岐点のひとつはたぶん二十歳の頃に出会った交通費を浮かせて買った中島梓さんの「コミュニケーション不全症候群」です。あれこれ書いていますがさして後悔はしていませんし進む道を誤ったとは思っておらず、分岐点で選択しなかった選択肢についてたぶんこの先も考えても時間の無駄です。Que sera,sera.