辻井喬さんのこと

けものみちは暗い」という短編集がありました。私が高校生くらいのときには文庫になってた本です。安珍の物語を題材にした僧の話「燃え尽きた蛇」や極楽を追えば追うほど遠のいてしまう「高麗雉子になった男」など、人のなかに獣を見るような、刺さるような物語がいくつか編んでありました。最初に読んだ安珍の話は安珍が美しくそばにいた付き添いの僧が安珍にのめり込んでゆく話で、あんまりにも強烈で、えらいものを読んだぞ感がありました。その短編集を見つけたのは真夏の図書館です。家に冷房がありませんでしたから冷房のある図書館で勉強をしていたことがあったのですが、帰宅する前にちょっとずつ時間を設けて読んでいました。幸い誰も借りずにいて、最後まで読み通せたのですが、今から思えば物語の海に溺れていた至福の時間でした。棚のそばに同じ作家で「ゆく人なしに」という小説があり、すぐ後に読みました。なぜ古事記があのように書かれ、次いで日本書紀がかかれたのかという謎がおおまかな筋なのですが、古事記の物語を解釈しつつ事象を一方から見る怖さというのを叩き込まれた本です。しばらくしてそれら作品を書いた辻井喬という人が本来は小説家ではなく詩人であったことを知り(詩人であるせいか文章にメロディというか口語に近い読みやすさを感じていた)、さらに世俗的には西武百貨店無印良品にかかわった実業家であることを知ります。
実業家としての顔は毀誉褒貶があります。池袋駅にしかなかった西武百貨店を渋谷や大津や筑波へと多店化し、経営を引き受けた割賦販売の会社の再建過程においてセゾンカードを発行させクレジットカードを普及させています。もっともすべてが順調だったわけでもなく関与していた西武百貨店はヨーカドーの、西友ウォルマートの、パルコは大丸・松坂屋の、ファミリーマート伊藤忠の傘下に入っています。関与した西洋環境開発という不動産会社などの借入金が過大で処理の過程で私財を提供することとなり、実業の世界からは十数年前に引退してます。しかし無形の遺産もあります。初期には武満徹の音楽を積極的に紹介していたパルコ劇場は現存してて立川志の輔師匠の落語会や三谷幸喜作品の演劇がかかり、東京の文化の発信地でもあり続けてます。シアーズ・ローバックの商品開発をヒントにしてコストダウンを図りつつ取り扱い商品の品質の向上を狙った無印良品西友プライベートブランドという位置から飛躍して北米・欧州にも展開しています。また実業家時代に変革の透視図という流通産業論の本を書いているのですが、柳田国男を引用しながら進化の過程が欧州のように直線的でない「ずるずるだらだら目立たずに動く」日本の社会の特質を述べ、三島由紀夫の文化防衛論を引用しながら私有財産制と国体護持を並列にする戦前の日本を近代化だけして自由主義のかい離があったと述べてていたり、きわめて刺激的でした。専門外でしたが大学時代に買って読んでいます。この本、歴史や社会のものの見方にかなり影響を受けましたっててめえの話はともかく。
実業家としての現役引退後は小説の世界に軸足を移します。川田順という実在の人物を基に書いて文学賞をとったりするのですが、「西行桜」という能の作品を基にした幻想的なものもあります。「ゆく人なしに」も「けもの道は暗い」もそうなのですが、古来よりある説話・語りものなどを題材に新たな物語・かたりものを吹きこむことにひどく長けた人でした。その結果、受験勉強の合間にまんまとからめとられて物語の海に溺れてしまうようなのもいるのですが。
辻井さんは私にとって小説の面白さを思い知らされた一人であったりします。訃報を知って、惜しい人が居なくなっちゃったな感があります。