仮の解にたどり着くまで及び上野名誉教授の祝辞を読んでの雑感

雇用機会均等法というのがあります。それを知ったのは90年前半の高校生の頃です。男子校だったのですが現国および古典の先生として女性教諭がいて、雇用機会均等法の施行により就職したというのを現国および古典とは関係ないおそらく公民分野の授業で教えられた記憶があります。わが母校にはそれまで女性の就職枠がなかったようで。でもって大学へ行くと労働法の授業がありました。労組法、労働基準法労働関係調整法のほかに雇用機会均等法や労使関係論も触れてます。労働法分野の成績はすべてAだったのですがさらに深く学ぶことをせず興味は塩ラーメンになぜゴマがついてるのか…じゃねえ家族法などに向いてしまい、「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を図るとともに」という目的の雇用機会均等法は社会に出るころにはなんとなくあたりまえのことであると考えていました。実際、就職して男性の上司にも女性の上司にも仕えた経験から性別の差で雇用の機会がないとしたら不合理だよな、と感じていましたし、そもそも根っこには平等は無条件でなによりも優先すべき良いことなのでは、という意識がありました。途中までは。

話がいつものように横に素っ飛びます。

(2013年に亡くなられた)辻井喬という小説家・詩人がいます。経営者としては堤清二という名前で西武百貨店などの経営に関与しています。08年に刊行された「ポスト消費社会の行方」(文春新書)という本があり社史の一部を書いた上野千鶴子教授(08年当時)との対談集になっているのですがその中で堤清二の名で法案制定の諮問会議の委員として関わった雇用機会均等法について7ページほど割かれています。当該諮問会議において、堤さんは深夜労働等が制限されていたのが撤廃され男女平等に扱える雇用機会均等法は経営者として有利だから賛意を示したのですが、三菱系企業の委員が「古来より男女七歳にして席同じゅうせず」という美風を前提に労働条件を男女平等にすることに反対意見を述べ、その三菱系企業の委員の前時代的な意見に労組側は反発して労働条件の悪化につながる可能性があるにもかかわらず雇用機会均等法になぜか賛意を示す、という不思議な構図があった上で雇用機会均等法は成立したことを振り返っていました。さらに上野教授は非正規雇用の拡大などによる雇用の流動化が進み均等法が法律の効果として女性を守ることはなかった、と指摘し、女性の労働者にとって最適解の雇用法ではなかったのですね、と堤さんが引き取って上記の本の中ではまとめられているのですが、ここらへんはじめて知ることばかりで、また労働法の授業でAをとって社会に出たにもかかわらず本を読むまで均等法の条文と建前しか知らず深く考えたこともなく、読んでてそれまで実際的な視点がなかったことを恥じるばかりでした。

恥かきついでに続けます(つか恥の多い人生を送っていますが)。

上野教授はこの雇用機会均等法に関して諮問会議のかやの外にいた女性団体は生理休暇他失うものが多く労働強化にしかならないと指摘して猛反発していたことも上記の本の中で述べていて、結果としてその指摘は的中してしまいます。ここで私が引っかかったのが男として非常に書き難いことですが匿名なので恥かきついでに書きます。過去にあった差異を前提にした生理休暇の存在です。(生理を体験してないので知識として知っていても)読むまで過去は休暇があったほどの事象であるという理解がなく、おのれの不勉強を恥じるところがあります。でもってこの一連の流れを眺めてて基本的な疑問が生じてます。

「差異があったとき必ずしも平等でなくても差異を考慮して不合理を回避するための処置は存在したほうがいいのか」

「機会の平等のために差異はなるべく横に置いて平等を追求したほうが良いのか」

と、どっちが良いのかという点です。あたりまえだと思っていた雇用機会均等法は繰り返しますが生理休暇を含め本質的に差異を横に置いて平等を追求した法律です。しかしそこに労働強化にしかならなかった現実があるとしたら、差異を横に置いて平等にすることは最適解ではないのかもしれぬ、という意識が上記の本を読んで08年以降うっすらとありました。ですが積極的平等を是とすることが世の中では受容されなおかつ均等法は法として決まってしまったことでもあり、私の意識は皮膚感覚的なものでしかなく・思想的バックボーンがあるわけでもなく、やはり答えは出ていませんでした。

さらに恥の上塗りをします。

今年の東大の入学式で上野千鶴子名誉教授が述べた祝辞の中で、フェミニズムについて解説があり「弱者が弱者のまま尊重される社会を求める思想です」とあって、カタカナ語に弱いのでフェミニズムを深くは知らず+近寄らずにいたのでやっと「ああそういうことなのね」と氷解してます。私が抱えていた疑問を解くときにこの齧りかけのフェミニズムの思想を流用すると弱者が弱者のまま尊重されるのであるのなら差異があったとき差異はそのままでよいはずで、「差異があったとき差異を考慮して必ずしも平等でなくてもその不合理回避のための処置は存在したほうがいい」のかもしれません。10年以上かかっちまいましたがフェミニズムの力を借りて、抱えていた疑問の、腑に落ちる仮の解にたどり着けています。ただ雇用機会均等法施行から30年以上を経て建前として「平等のために差異は横に置いて平等を追求したほうが良い」ことが正論かつ当然になりつつある世の中なので大多数の人が求める解とはなりえないかもしれないのですが月並みなことを書くと私は上記の本で上野教授の視点が無ければ問題意識も持たなかったかもしれませんし、祝辞を目にしなければ仮の解にもたどり着けなかったかもしれません。ここでまた他者の視点に学ぶことの重要性を改めて思い知ったのですが、私が偶然学んだ他者の視点である上野教授という女性学という独自の視点を持っていた人物を抱えていた東大って改めてすげーよなー、って思いました、って、てめえの抱えていた現実には毒にも薬にもならない問題意識と疑問と仮の解と感想は横に置いておくとして。

私は(東大ではない)大学で解はひとつとは限らないという教育を受けてきたせいもあって絶対的な解があるとは限らないというもののとらえ方がずっとあるので上野教授の祝辞の中にあった「正解のない問いに満ちた世界が待ち受けている」ということについて皮膚感覚としてよく理解できる気がしてます。でもって、アルコール度数の高いお酒をあおったあとのような心地よいひりひりとした感覚がありました。また祝辞が学問とはどういうものかの間接的な紹介にもなってて名文がなにかなんてわかりはしないけど名文かもしれない、とも感じてもいます。そして祝辞の言葉を借りれば「未知を求めて」学生時代にフェミニズムをはじめとした幅広い学問を齧ってればよかったかなあ、という後悔の念も生じてます。もちろん働きながらですから実際にはそんな余裕はなかったし、そんなこといったってあとの祭りであるんすが。あははのは。でもちょっとはそう考えさせるだけの力があの祝辞にはあったような気がしてならなかったり。