はるか昔にも書いたのですが、私は目が良くなかったので途中からクリアな世界を手に入れました。その視力を失いたくないのでテレビアニメやゲームとは無縁の世界で育っています。周囲がファミコンを持ってても私はもってなかったのでまったく話が通じません。ガンダムスーパーマリオエヴァンゲリオンも名前は知ってても詳しくは知りません。説明なしにどれだけ深い知識を持ちつつ共通の会話をするか、というのを人はけっこうしたがります。ガンダムに詳しい人はガンダムを知ってることを前提にシャアがどうこうとかあれこれしゃべりますが、なにがなんだかさっぱりな場合は聞いてるほうはまったくなにがなんだかさっぱりなところがあります。これが同程度の知識の人が二人いればエスカレートします。相互に知識を褒め合う図、になります。そこで知識がないほうは、その場になじめなくなります。私はクリアな世界を手に入れてからこっち、その知識がまったくないのでアニメやゲームのことについてその場の空気になじめない、というのはけっこうあったりします。自分と周囲に差異があったとき、その差異について周囲から一時的・場合によっては恒常的な有形無形の排除があったりします。その排除をうけたほうが「馴染めない」と感じるのかなあと思ってるんすが。
どれだけ深く知ってるかというのは暗記の世界ですが、暗記というのは時間と脳をつかいます。時間と脳は有限ですから、既に差がある場合はかないっこないのです。私は同じ土俵にのるのを放棄してるところがあります(ただ近しい人がエヴァンゲリオン好きで語りたいときは、同じ土俵に乗らずにそのかわり傾聴してます)。学生時代、周囲とやってゆけたのは、歴史の知識があって(信長の野望であれば話に乗ることができた)、楽譜が読めたりスポーツを若干やってたりとかしたせいでしょう。アニメやゲームというのは他人にとっても生活の一部に過ぎなくて、疎外感は一時的に感じても、話題がそれにすべて集中するわけではなかったからです。
大人になってある程度自由になってからは、馴染めないところには近づかない、という行動ができるようになりました。変な話ですが、私は育った街がいまは馴染めません。大学を出て・職を得る、というと勉学の機会は平等であっても結果が平等じゃなかったがために周囲と差異があり、ある種ねたみのような言葉を引き受けなければならないからです。もうひとつはゲイタウンです。純粋に男にだけ抱かれてきたわけでもないのでその点をとらえて淫乱といわれたことがあります。かわいいな・良いなと思える相手と寝て気持ちよくして・してもらってということについて性別が同じでも違ってもいいじゃんとおもうのだけど、そこでなぜ淫乱といわれなければならないのか判るようで判りませんが、淫乱という指摘が俺とお前は違うんだよという差異の指摘であり世界で生きてく上での教育なのかもしれないなと気がついたらもう、おそらくなじめないだろうなと思って近寄ってません。このダイアリーで2丁目とかの言葉がでてこないのはそのためです。
おそらくゲイタウンに限らずに他人と差異があるときに、その差異を指摘し、排除の方向へむかうことはどこにでもあるかもしれません。でもって馴染めなかったとき、どうするか、ということについて書こうとおもったものの、おそらく普遍的なことは書けないなあ、と思いました。馴染めないということをどうやって乗り切るか、ということに関しては、答えは私は持っていない、の一言に尽きます。寂しくないか、といったらもちろんありますが、それはもう、ガンダムを知らない時代からうっすらあたりまえのことであったので特に苦ではないし、そのかわり自由であったりします。