暗闇坂からぐるぐる

「文学を殺したのはだあれ?私だわ、と大江健三郎はいった」という文章が、私の大学生時代にかかれてます。大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞し、いったん断筆した直後です。書いたのは中島梓という、評論家です。別名、栗本薫ともいい、SF・ミステリ・BL作家としても有名な人でした。去年、再発したがんで死去しています。


大学は法学をとったのでまったく文学の門外漢で、大江さんが文学賞を貰った、ということはめでたいことなのかな、っていう認識しかなたった私にとってその文章はちょっと衝撃的な文章でした。大江さんは光さんが自分で音楽を作るようになって、光さんと世界をつなぐ役割をしてやろう、っていう自分の文学の目的を必要としなくなります。で、いったん断筆しちまうわけです。それを傍からみてた中島さんはその意味をちゃんとうけとります。でもって「文学は、水頭症の子供を抱えるひとりの文学者を救わなかった。文学者を救ったのは音楽だった」ってのにショックを受けた(らしい)のです。中島さん自身、歌舞伎やミュージカルも手がけてたはずなんすけど、出発点は文学です。大江さんの行動の意味を感じ取って、文学ってじゃあ、なんのためにあるの、という問題がでてきちまった(ような)のです。たぶん中島・栗本さん自身がどうも(物語に飢えた子供であったせいもあると思うのですが)「文学は飢えた子供の前で有効かどうか・救えるかどうか」というテーマを不幸にもどこか意識してる・もってしまってる人なので、そのテーマは一大事だったはずです。で、中島さんは大江さんが証明しちまった「文学は文学者ひとり救えなかった」という事態に危機感を持ち、「文学をころしたのはだあれ?私だわ、と大江健三郎はいった」と書きます。仮にその文章を大江さんが読んでも大江さんは平然と「ぼくは個人的体験を書いたのであって、文学なんか殺してないですよ」というとは思いますが。
私はバイト先で写真資料のセクションにいたのですが隣が図書資料関係で、幸か不幸か私は文学にまったく興味がなかったわけではなかったので置いてあった文学雑誌を開き、その文章を読んでます。以来、中島さんの問題意識がずっと伏流水のように流れてます。門外漢の癖してそんなこと考えてもしょうがないのですけども。ともかく、ああ、そういうことなのか、ってのがよく判りました。なんのことはない、私の高校時代は[物語に飢えた子供]だったので、「真田太平記」とか「銀河英雄伝説」とか「寺内貫太郎一家」とか、試験勉強の合間にこっそり読んで飢えを満たしてたからです。物語と文学はどう違うのかはわかりません。でも、中島さんの危機感はなんだかすごく、皮膚感覚としてよく判ったのです。ちゃんとかくと、物語ってのは、一時期私にとって疲れを癒す・しんどさをごまかす・現実を忘れさすための麻薬でした。創作物の麻薬性は文学とか音楽とかのひとつの効用なんじゃね?って思ってるんすけどそれはともかく。


中島梓栗本薫という人が気になったのはそこらへんからです。小説道場、という本を閲覧して「やおいはゴーカンたるべし」という記述にくらくらした記憶もあります。で、「大江健三郎が殺した文学をどうやって生き返らすか」ってなことを、栗本さんは考えていたんじゃないか、という気がしないでもないっす。本人に訊いたわけでもないので、飢えた子供の前に文学は有効であるのか、なんて本気で考えてたかどうかはわからないけど、その後の栗本さんの行動を見ると大江さんが殺した文学の再生への答えのひとつが自分のつむぎだす【物語】であるという自負がどこかあって愚直にずっと【物語】を書いてたんじゃないかなあという気がするのです。もちろん、一連のやおい小説も含まるべきでしょう。たぶん、積極的に現実にかかわらない・井戸の中からでてくることを積極的にしない・でも理想や妄想を語るのが好きな、どこかコミュニケーション不全の読者に物語を生産・投下することで、作品を通して彼らに力をあたえることが自分の役割だ、と思い込んでたのではないかな、という気がしてます。実際、不満もあったはずですがミステリファンややおいを求める少年少女の飢えを満たしてきたわけで。

大江さんは光さんが音楽で表現できるようになってから光さんと社会をつなげようとした自分の文学の目的は終わった、としたあとに身内の伊丹さんが死んだあとにその死の意味を感じ取ってしまい、やはり語りたくなって再度文学を必要とするようになり「取り替え子」およびその先の話を書きます。大江さん自身がいったん不要とした文学を必要としたわけですが、それを中島さんはどう思ってたのか個人的にはすごく知りたいけど、わかりません。大江さんは個人的体験を書いて文学にして昇華・消化したけど、栗本さんは個人的体験をほとんど文学にしてないはずで、畑の違う話、ですんじゃいそうな気がします。


ここらへん、インタビューをしたわけでもないからあてずっぽうです。ほんとは中島・栗本さんはなんのために書いてたのか。そこらへんは謎です。訊いた人がいたかどうかもわかりません。大江さんの「水頭症の子に関する問題」は文学ではなく光くんの音楽で解決したけど、たぶん中島梓栗本薫さんが抱える「内なる問題」は音楽によって解決するとは限りませんし、もちろん文学によって解決したのかもわかりません。
ただ、中島さん・栗本さんの悲劇というのは、ご自身がどこか「物語に飢えた子供」であったことと(だから内なる幼児性を失わずにどんな年になってももっとやおいをってなことを平気で言えた)、ご自身の中の「物語を必要とする体質・根源」というのを解決できなかった点にあるんじゃないか、と思うのです。ゲスな勘繰りが許されるのであるならばたぶん晩年は「がん」と向き合わざるを得ないことと(がんのサバイバーであったことを考えると物語ががん再発の恐怖への逃避場所になってたんではないかなあ、未完に終わった「グイン・サーガ」は一冊も読んでないけど、終わったら、物語に没入する機会がなくなるってことは、恐怖と隣り合わせを意味してたんじゃないかなあ、と)、小説道場の頃は、なんだろ、狂気のようなものがあったのか、寂しかったのかなあ。どうして不幸な話を好むんだろ・書くんだろ、ってのがあったんすけど。不幸な話ってのは、蜜の味っすからそれを欲するだけのしんどい何かを抱えてたのではないかなあ、という気がします。
それは栗本さんの弱さだし、等身大の姿だったはずです。ここらへんご本人にとっては悲劇であったかもですが、その果実を受け取った人も多かったはずです。


本郷から上野に抜ける途中に暗闇坂というところがあって、途中に美術館があります。じつはこの夏そこで栗本薫展をやってました。その栗本薫展の飾り言葉が[稀代のストーリーテラー]でした。私にとって中島・栗本さんはどう考えてもストーリーテラーではなく文学者でその飾り言葉がなんとなく気に食わなくて、中島・栗本さんの死は文学者としての死ではないのかなあ、ってのが気になってこの夏、数回暗闇坂を通りながらもついぞ入れなかったです。飾り言葉など本来どうでもいいことですが、私の中ではどうでも良くないことで、文学というのはなんなのか、っていうことにつき、深く考えさせられたきっかけを与えてくれた人だからです。
今日も暗闇坂を通ってきたのですが、入らなかった代わりに・お彼岸なので「中島・栗本さんは死ぬまで文学者として生きたんじゃないかなあ」ということをなんとなくつぶやきたいんすけどなんだかぐるぐる頭の中がまとまらず、巧くかけません。まだ中島・栗本さんがぶつかっていた・問うていたであろう、文学ってなんのためにあるの、という自分なりの答えを用意してないせい、そもそも文学ってなんだかよくわかってないせいかもですが。