惜しいなあ、と思ったこと

私は文学部の出ではないので文学が何をするところかもわからないし文学がどういうものかもわからないので、へたなことは言えないんすけど、読めばなにが書いてあるかとか、大江さんが自分の文学の役割を見限ったうえでさらにレイトワークと自称しつつだぶん己を救済しつつ創作してるのかな、ぐらいはさすがにわかります。でもって賞をもらった人が記憶が間違ってなければ芥川は生き方を語っちゃってるから駄目で、谷崎、三島、川端は生き方を語ってないからいい、と答えててへんになるほどなー、と思ったのですが、生き方の模索というのは文学の一つのテーマなのかなと思ってた私には、ああやはり文学の中から生き方の模索を読み取ってる人がいるのか、と妙に安心したんすけどそれはともかく。
都知事閣下が文学の賞の選考をやめるにあたって「いつか若い連中が出てきて足をすくわれる、そういう戦慄を期待したけど全然刺激にならない。自分の人生にとっての意味合いの問題だ」と語ってたのが印象的で、もしそれが本心ならば自分の世界観なり文学観なりを自分でつき崩せない・再生できないくらいにこのおじいちゃんはもう創作能力を失ったのかもな、ちょっと惜しいなあ、なんてことを考えてたんすが。というのは聴覚と視覚を失った人の小説を職務の傍ら最近書いていらして、他人との意思疎通・接触の有力な手段を絶たれたときにどうなるか・人との意思疎通が底に横たわるテーマなんすけど、こういう重要・重いことをまだ考えてるのか、ちょっとこのひと並大抵じゃないかもな、なんてしろうとは考えてたので。そういう一人の小説家が老いることが日本にとっていいことなのか、文学にとっていいことなのか、文学に詳しくないんでちょっとわかりませんが。