テレビでうそ臭さを感じる

光ちゃんが音楽家として独り立ちしたとき、大江健三郎の中では文学を書く必要がなくなった、小説を書く必要はなくなった、というのも判るのです。私も上手い具合に着地できてよかったですね、ぐらいは云える。自分の中に「内なる水頭症の子供のようなもの」を抱えてるのかイーヨーの悲嘆がわかっちまっても、会う機会なんてないだろうけど、本心からいえるとおもう。

光ちゃんの一件を美談だと思える人も居るのもわかる。
ただ、美談とかに感動する人が、そのころからなんか、うそくさいと思ってた。


ガンで死去したウインドサーファーの美談かなにかが映画化されるCMを見る。桑田佳祐の主題歌で映画化されるのはわかったし、桑田さんにはなんら罪はない。たぶん、ほんとに感動的作品なのかもしれない。しかし、どこか、だから何?と思えます。
そのサーファーの家族からすれば既に美談なんだと思う。ガンとの闘病も肉親の死も、綺麗な思い出なんだと思う。それをああ、感動的って思える人も居るんだと思う。


闘病を支えた末での父の死をいまだ美化できず、盆に墓参りしてきて心が揺れるような私は、たぶん弱いんだと思う。
生きてたいとこだわる何人かのガン患者を見ちまったからか、死というものがなんか美談につながるとはおもえない。


映画の出来事は本当のできごとなんだろうけど、どこか、うそくさいと思えてしまう。
ほんとひねくれちゃったな、とおもう。