欠如

何年かに一度必ずジブリのアニメというのがテレビで流れますが、たいていはみていません。紅の豚もみてません。最後にわりとちゃんと見たのはもののけ姫で、しかし映画館では見てなくて、しかも他人の家で風呂上りに細切れで見た記憶があります。もののけ姫もどんな内容かはほとんど記憶してません。もいちどちゃんと見てみたい気はするのですが、気がするだけで実行には移していません。もっとも銭形警部がどこの所属だったかは忘れてる程度にカリオストロは覚えてるんすが(でもやはり自宅外で視聴した)。周囲の子供に比べてジブリもよくわかってないし、アニメにもゲームにも詳しくないわけで、前提となる教養がすこーんとおちてて、アニメやゲームなどに限らず同じ教養・予備知識があることを前提とされるといまでもしょっちゅうとまどうんだけど、こればっかりは、いかんともしがたいっす。たぶん他人が知ってることを俺はしらないまんまきちまってて、それをいまさらどうこうできないわけで。

如実に表れるのは美しいとかきれいとかの概念で、神田川べりはようがあっていくのですが、日常を知ってるのでサクラが咲くとサクラに圧倒されて景色が一変するのでたしかに一見の価値があると思うのだけど、それは「いつもとは違う」という意味合いです。キレイとか美しいというのは、景色が一変することも果たして含まれるんすかね。世の中でサクラがキレイという認識があって、それはわからんでもないのですが、ブログのようなものを書くようになってからそもそもキレイとか美しいってなんなんだろうって考えはじめたことがあって、てめえはサクラがキレイだと言い切れるのか・惹かれるのか・良いと言えるのかというと怪しいところがあって、もしかしたら、常識的なもの・美意識をふくめ「他人が知ってること」が欠如してるのかもしれないな、とおもうようになりました。桜見はなんべんもしてますが、デートとか酒に気をとらてて、ちゃんと見てなかったのかもしれません。こういうことを書くことは最近までどこかひっかかりがあって、自らの無知・無学もしくは美意識の欠如について晒すことにひっかかりがあるということはそれらがないことを認めたくないからでしょう。無知・無学・美意識の欠如を認めるということはそれがある人に結局は負ける自分を見ることが怖かったんだろうな、と。いまは怖くないのか、っていったら怖いんすけども。無学無知ついでに書いておくと、サクラをみて心が動かされるのは、散るときではなびらがひらひらと舞うときで、目で追っちまいます。もっともそれがきれいとか美しいというのか、わからんのですが。


なにかか欠如して他人のことば、たとえば【美しい】が判らない、というのは、けっこうシビアで、ことばの意味として「○○とはこういうもんでしょう」というのがあるらしいんだけど、その前提を共有できないのは、てんで話が通じないことがあり得るというか。で、他人のことばが判らんというのは自分の言葉は他人にはわからないかもしれない、というのと表裏一体で、恐怖というかなんというか、そういうことがあるわけです。特に外れてなければいいんだけど、外れてるとき「なにいってんだこいつ」的なものになっちまうわけで。
たぶんこの文章も「なにいってんだこいつ」的なところがあるかもしれませんけども。