ナイフ

きれいにする、というのはたぶん推奨されるべきことで、文字をきれいに書くとか、片付けるというのは、なんとなく良いこととされていたりします。しかしながら私は決して字がきれいなほうではなく、片づけというのも忙しいとおろそかになりがちで、万全にそれをできません。


あわてて書いて字がきれいではないとか、万全を期してない段階で、「これでいいのかな、よくないんだろな」とかの不安感があったりすると、常に字がキレイとか部屋を片付けるとかの他人のはなしというのは、脅迫めいたものにも聞こえたりします。片づけに関する本の忌避感の根底はそこで、なんで片付けないのとか、「こういうやりかたがあるのに・こういうやりかたをしたらうまくいくのに、あなたはそれをとらないそれでいいの?」みたいな。ほんとは選択肢はいくらでもあるんだけど、ある解答を目の前に提示されてなんとなくそれが正しいというのがあって、それ以外の選択肢をとるのは馬鹿だみたいな雰囲気があって、でもそちらを選択するのが難しいとき、けっこうしんどかったりします。


きれいにする、というのはほんとはそのほうがいいのかもしれませんし、在庫管理の話になれば無駄も省けますし、字もきれいなほうがいろんな人が読めます。だからきれいってのは、きたないとか雑然としてる状況よりはいいのかもしれません。でもそれは常に正しいのか、っていうとどうなんだろう、と思っちまうのです。
たまにきれいってことばは独り歩きして、きれいでないものを悪いものとみなすような、他人を斬りつけるがナイフだよなあ、と思うことがあります。言葉ってのもナイフかもしれません。巧く使えば便利なのかもですが、きれいにまつわる言葉は、気が付くとなんかこう知らないうちにどこかから血が流れてる感覚があったりします。