「感動をありがとう」

ラッキーセブンということばがあります。うそだかホントだかはわからないけど、野球では7回に形勢がひっくり返ったり逆転したり、ってことがあるので7回のことをラッキーセブンというようになった、というのをきいたことがあります。いまでも野球ってどっちに転がるかわからないところを楽しむものであるという認識があります。野球と感動がどこか結びつかないのはそこらへんに理由があるかもしれません。松井選手が引退した時に何点か本が出版されてて、丸善でもみかけたことがあります。そのなかに「夢と感動をありがとう」と表紙に書かれてるのがあって、違和感があったことがあります。ケガや環境変化を淡々と受け入れつつずっと強打者もしくは巧打者でありつづけたことに関してすごいな―と思って報道に接してましたけど(精神力の強さってのが気になってた)、感動したかっていうとそれは別だったからです。
スポーツなどで(音楽や文学とかでもそうかもなんすが)感動しました、というのは個人の感想なんだけど、感動をありがとう、というと、感謝を含めることになります。感動する人がいて感動をそのまま述べるのもおかしくないのだけど、感謝しなくちゃいけないかっていったらそんなことはないわけで。でも「感動をありがとう」、といわれると、感動をしなかったほうは(もしくは感動してもありがとうといわなかったほうは)、なんとなく感謝することを知らない礼儀知らずみたいなところにいってしまう気がしてならなかったりします。そこらへん居心地の悪さってのを感じます。提供してもらったものに対してありがとうという言葉は感謝の言葉で決して悪いものではないのだけど、「感動をありがとう」をいうほうが、感謝の言葉をつかっていい人アッピールしてるにおいを感じることがないわけでもないっす。おそらくそれが苦手で違和感を感じたのだろうな、などとどうでもいいことを分析しちまったんすが。
もちろん感動をありがとうと書いたほうはそれほどの意図はないこともあるのだろうけど、結果として、そういう反応をしないほうがおかしい。みたいなところに行きつきかねないので、厄介だよなあ、と思うのです。
こんなこと考えるのはやはり何かが欠けてるんだろうなあ、と最近強く思うようになってるのですけれども。