これを書くといかにおのれが人非人であるか、ということの証明になっちまいそうなので書き難いのだけど、感動というのが判るようで判らないところがあります。
親の葬式のあと納骨の日が判ってて、その納骨の日に休暇を申し出たらそりが合わなかった上司だったせいもあってなぜか通らずに難色を示されていて、やむを得ないので無断欠勤するつもりであることを周囲に漏らしたら、ある先輩と後輩が相応に奔走・根回ししてくれて欠勤扱いにならなかったことがあります。そのお礼を述べたあと(親身になってくれる人が居て)「俺恵まれてるのかなあ」とひとりで泣いたことがあるのですが、その経験からか自分にとって影響があることが感動なのかなあ、と思ってます。そもそもここで間違ってるのかもしれませんが。
槇原さんの曲のなかに「林檎の花」というのがあり、それはJRのCMと連動していたのですが、そのCMは吉幾三扮する古参駅員が三浦春馬演ずる若手駅員を「おい東京!」と呼びすてするところからはじまりました。同じようになにも知らないところに放り込まれて「おい東京!」からはじまったのであああそこに俺がいるよ!と思っちまい、「林檎の花」をきくとつい目頭がうるってなっちまうところがあります。実はこの「うるっとくる」とか目頭が熱くなるというのが感動なのかどうかちょっとわからないところがあります。正確に書けば、感動というのが言葉の存在自体は知ってるけどどういうことなのかわからぬままオトナになっちまったところがあります。
そのせいかどうかわからぬものの、高校野球などで感動という言葉をきくと、スポーツ観戦と感動というのがどこでどう結び付くかわからずにいて、感動というのがいまいちぴんとこなかったりします。