阿蘇へ

金土日と三日ほどお休みを貰って九州へ行っていました。
○遡及日誌第一日目
九州鉄道記念館
飛行機で九州入りし、まず最初に訪れたのが北九州市門司港にある、九州鉄道記念館です。

明治期に建てられた九州鉄道(現在の鹿児島本線の一部を運営していた私鉄)の社屋がそのまま利用されています。博物館というより鉄道車両の保存館としての側面が強いです。
いくつか保存されてる車両の中から九州に特に関連してるものをいくつか。

右の銀色の機関車はEF30といい、門司⇔下関の関門トンネル専用の機関車です。塩害による腐食を避けるため、ステンレス板をつかっています。交流・直流どちかでもつかえる仕様になっていました。いま交流・直流とふたつ書きましたが、日本の鉄道の電化は大まかに分けてこの2つの方式に分けられます。戦時中は電化といえば直流が主流だったので関門トンネルは直流でやっちましました。ところが門司以南の九州内は戦後電化を計画したのですが、直流電化に比べて変電所が少なくて済む(安価である)交流による電化を選択しました。どちらも走ることができる機関車として銀色のEF30が製造されます。で、真中のED761と書かれた赤い機関車は九州で長いこと活躍した交流区間専用電気機関車です。九州島内の蒸気機関車等牽引の既存の貨物列車や客車列車を電気機関車牽引に置き換えて対処することとし、ED76はそのために製作された機関車です。以前は大分から東京までの富士という客車の夜行があったのですが関門トンネルは直流のままなのでED76は門司までしか進めず、関門トンネルは交直流両用の機関車に付け替え、下関から東は直流の機関車に付け替えて東進させていました。できれば交直両方使える機関車を増備したいところですが、当時は費用の面で難しく門司と下関での機関車付け替えを選択していました。日本の鉄道の電化の歴史を踏まえるとここは縮図の場所です。現在は交直流の機関車が増備され交直流の機関車牽引の貨物列車が九州島内を走る運用が増え改善されています。

481系という交流電化された門司以南と直流区間関門トンネル以東を直通できるように製作された特急車です。現在は新幹線が東京・大阪から博多・鹿児島まで直通していますが、以前は新幹線は大阪・岡山までだったので、新幹線接続の特急として門司以東の直流区間と九州島内の交流区間を直通運転する必要があったためです。

481系のような交直流ともに走れる車両というのは若干高価なので、そこで考えられたのが昼夜ともに走れる電車をつくろうということになってこの581系が登場します。たとえば夜は大阪から宮崎などへ走る新幹線接続の夜行寝台特急として走行したあと宮崎で寝台を片付けて九州内の特急として往復し、さらに宮崎で寝台をセットして大阪へ戻る運用が組まれました。

寝台を片付けてある状況ですが座席のモケットをずらせば最下段寝台になるようになってるほか網棚の上に寝台が隠れてまして夜間は三段式の寝台車となってました。ところが製造後十数年経過すると持て余し気味になり、寝台車としての運用を封印して九州の各駅停車用に改造となり佐賀・長崎県下での普通列車に投入されてました。吊革があるのは普通列車につかうときの改造の名残です。
なんというかここ九州の鉄道が背負ってきたものをそのまま冷凍保存したような記念館です。

東京と九州を結ぶ夜行寝台の「富士」号の車両です。どの列車にも列車番号というのが振られてるのですが、09年の廃止直前は栄光のトップナンバー1列車2列車を振られていました。で、上りの「富士」と「はやぶさ」にはなんどかお世話になってて名古屋駅に5時半ごろについてました。はやぶさが7時前です。いつか全行程自分のカネで乗る・東京まで乗るのが夢でしたが、そんな余裕もないまま列車が無くなりいまに至ります。車内にも入ったのですが出口へ向かうときに名古屋にいたころを思い出しちまい、ちょっと懐かしかったです。記憶って変なきっかけでよみがえります。あの頃に戻りたいかというとそんなことはないのですけど。
[門司港・下関]
門司港は北九州の海の玄関口であった時期が長く、開運関係の建造物が比較的残っています。

大阪商船(いまの商船三井)の建物です。門司は戦前は大陸航路の拠点として機能していて待合室なども存在していたようです。いまでも門司周辺は物流の拠点でもあって、たとえば北九州内で生産された自動車を運送するための積出港でもありますし、青果物の輸入受入基地でもあります。門司に来るまで知らなかったのですが、台湾から出荷されたバナナを京阪神へ持って行く前に熟して食べごろになってしまったものを門司で捌いたのがいわゆる「バナナのたたき売り」です。

門司港駅前から対岸の下関までの渡船があります。10分もかかりません。鉄道の関門トンネルのほか自動車橋もかかってますし、歩ける歩道トンネルもありますが、渡船で下関へ。

下関では赤間神宮へ参詣しました。安徳天皇を祀り平家一門の墓がある神社です。安徳帝関門海峡の鎮めの神でもあったりします(でもいまでも関門海峡では事故がけっこうあります)。

赤間神宮のそばには碇が。八百年忌の前後に寄進されたもののようで、いわゆる碇知盛っていうのがあって壇ノ浦の合戦の際に平家側の敗北を悟った知盛が「みるべこことのほどをばすべてみつ」といい死骸を敵にさらさないように碇を背負って入水する説話に由来します。碇知盛の話はけっこう印象に残ってたので、改めてここらへんだったのかなーと、海を眺めていました(眺めてたってなんのプラスにもならないのですが)。知盛の話が気になるのは簡単な理由で、いざというときにおのれが動じずにちゃんと冷静に判断できるかどうか・振る舞えるかどうか、という点です(私はそれほどできた人間ではないからあんまり自信はありません)。武将ではないですからそんなこと考える必要はないのですが、どこかでひっかかってて少なくとも「みっともない姿を見せるべきではないかもしれない」というのはどこか奥底でひっかかっています。

下関はフグのまちでもあります。対岸が門司です。このフグをみた時に、門司をあとまわしにして先に下関でフグを食べてもよかったね、と一瞬後悔したのですがあとの祭りでした。
この日はこのあと九州へ戻り、唐津というところに宿泊。
○遡及日誌第二日目
[虹の松原]
唐津佐賀県の北部にある小都市で、窯業の産地であると同時に虹の松原というところがあります。

朝めし後散策したのですが誰もいなかったのでプライベートビーチ状態です。でもって海水はちゃんとしょっぱかったことをご報告申し上げます。

白砂の広がる海岸のすぐそばに江戸期に唐津藩が防砂のために植えたクロマツの林がおよそ4キロほどそのまま残ってて、中は散策も出来ます。ただしどこらへんが虹なのかは最後までわからず。
福岡ドーム
唐津から筑肥線経由で唐人町へ行き、そこから福岡ドーム

ドームの隣の高層ビルがホテル棟で手前のイモムシ状のところがガラス張りの天井の高いアトリウムでコーヒーハウスになってます。いまはヒルトンになっちまいましたがシーホークという名前だった頃のはるーか昔にいちどだけ会社の先輩と入ったことがあって、印象深かったのでもう一度再訪しました。さすがに写真は自粛。
さらに福岡ドームのバックステージツアーへ。

福岡ドームブルペン(投球練習場)が別の部屋にあります。神宮のように見える場所にはないので相手チームには誰がウォーミングアップしてるのかばれない・観客も誰を投入するのかなというのを想像する楽しみがあるという利点があります。カメラが付いていてブルペンの状況はベンチからのみ確認できます。でもなんだろ、客席から見えたほうが面白そうな気もするのですが、ここらへんはすきずきかも。

ビジターチーム用のロッカールーム。ダルビッシュ選手は以前はここで着替えてたわけですね。でもってけっこう簡素な作りです。だいたいの傾向としてどのチームもベテランは奥のほうを、若手は入口のスペースをつかうのだとか。

で、どの球団の誰がつけたか謎の歪みがあったりします。おそらくバットで打ったのではないか、とされてるのですが悔し紛れであればホークスにとっては極めて名誉なことなのでそのままらしかったり。

ダグアウトにも入ってきました。星野監督の蹴っ飛ばした跡とかないのかな、などと探したのですがさすがにそんなものはありませんでした。

さすがにマウンドなどには近づけないのですが、そのかわりハリーくんのぬいぐるみを借りて記念撮影。写真ではわかりにくくて恐縮ですがハリーくんの手の先に福岡銀行が広告を出していて、広告に打球が当たると福岡銀行からボーナス100万円で、過去4回あったというのですが、けっこうな距離です。あそこまで飛ばすのかー、すげーよなー、と野球選手のすごさにあらためて呆然としちまったり。

去年引退した小久保選手の手をドームの外で発見。近鉄なきあとあんまり野球に興味を持たなくなっちまったのですが、小久保選手は気になってました。無償ドレードやケガなど波乱があったのですが乗り越え、まわりをまとめてチームを引っ張り、なおかつ実績を残して努力を怠らないその姿勢って、やはりすごかったと思います。鷹党ではないけどホークスは良い選手に恵まれて、良いチームであるよなあ。
[天神周辺]
バカだなあと思いつつ、紹介したかったのでパルコのかっぱの泉へ。

噴水なんすけどここが好きで、仕事で来たときにもこっそり寄ってました。福岡に来るとかっぱに逢わねば気がすまないというか。ここらへんちょっとバカかもしれません。

もうひとつ、アクロス福岡という商店街と貸会議室と音楽堂がある半官半民の建物なのですが、南へ向かって階段状に切り取られ、その階段状の部分を緑化しています。

四角い立方体の建物のほうが効率はいいし安くつくはずなのですが、効率と関係なく建てたのが勇気あるなあと。ちなみに緑化部分は登れます。ただこの日は暑かったので回避しました。福岡市の凄味というのはこういう建物が存在してるところだと思っています。そういう気風のまちなのかもしれません。
この日は熊本に移動して、熊本に宿泊
○遡及日誌第三日目
豊肥線
この日は阿蘇へ。

正直阿蘇に興味があったか、というとありませんでした。ないのだけど、途中豊肥線の立野という駅で「しばらく停車します」のアナウンスのあと運転台から運転士さんが降りてうしろへ行き、逆方向へ動きはじめたところで完ぺきに目が覚めました。山中に入るにあたり勾配がきついので、いっぺんに登らずにスイッチバックする区間だったようです。

写真右からエンジン全開で登ってきて、いったん停止し後部から運転士さんが戻ってきて、ポイントが切り替わったら左へ進路をとります。立野駅周辺でこれを二回くりかえし、阿蘇の山中への分け入ってゆきます。
阿蘇
よく阿蘇山という云われかたをしますが厳密には阿蘇山という山はありません。

杵島岳をはじめとした阿蘇五岳とよばれる山(中央火口丘)が真ん中に5つあり(上の写真の山々は阿蘇五岳)、

その周りを120キロほど外輪山とよばれる山脈がが連なります。それらを総称して阿蘇山といい、もともとは大きな単体のひとつの山であったと思われますが、30万年前から9万年前にかけて大噴火(4回ほどあったと推測されてます)があり、山の地下にあったものがすべて放出された結果ベこんと凹んで現状のようになり、そこに水が溜まってたと思われますがおそらく浸食などがおこり決壊し現状のようになったとされてます(さきほどの立野駅周辺だけ外輪山が途切れてる)。英語でcaldera(カルデラ)というのをおそらく高校くらいでやったはずですが、阿蘇カルデラともよばれます。

中岳方面への登山バスの車窓から牛が見えました(実は牛というのを間じかに見たことがなかったので子供みたいにカメラを向けて撮った)。牛馬の畜産業が古来よりわりと盛んらしく(馬刺しは熊本名物です)、そのほか稲作も行われています。ただ隣県の鹿児島は姶良カルデラの火山の影響でシラス台地が広がり稲作に適してないところがあるのと比較するとちょっと不思議です。噴出物がちがうのかなあ。また植生も草原がけっこうあるのが気になってました。木があまりないので土壌は酸性は強いのかも(イチゴが名産物なのでおそらくそうかなあ)。でもってさっきまでのめんどくさい感が消え、雄大な景色を前にちょっとテンションが上がってました。

いわゆる草千里とよばれる草原があります。

そこにいた牝馬さん。なんだか美形だと思いませんか。
[中岳火口]
阿蘇は活火山です。

中岳というところの火口を覗くことができます。ただし火山ガスの状況により危険があると立ち入り禁止にされます。この日はダイジョウブだったので、のぞくことができました。火口の底に酸性の湯が溜まってて、湯気の向こうに「湯だまり」が見えます。現況は写真のとうりなのですが一昨年に小規模な噴火があったときくと、ああやはり活火山なんだなあ、と。ただし溶岩流が流れ出るようなものではないのだとか。

火口のすぐそばにある砂千里というところ。

大正時代の噴火口のそばで火山弾(流動性のあるマグマが噴き出たあとに固まったもの)がそのままに。

おそらく過去の火口跡です。なんだか想像を絶する不思議な光景だなあ、と思ってしばらく動けませんでした。

動かない、ってわけにもいかないので午後の飛行機で帰京しました。次の日しんどくなかったか、と云ったらさすがにしんどかったのですが、後悔はしてなかったり。