くまモンにあいに

小さな懸案事項がひとつだけ片付いて、平日三日ほど休みを貰ってて、直前まで休めるかどうかわからなかったのでなんとなくおぼろげな行き先は決めていたものの細かいところは決めずに東京を離れました。まず最初に行ったのは福岡県です。
【遡及日誌第一日目】

福岡そのものは仕事でなんべんも来てるのですが時間があれば宿からこっそり見に来ちまうのが天神かっぱの泉。天神というのは西鉄電車のターミナルで、地下街とパルコの間にあります。時間になるとカッパが噴水になってるので水を吐き出して戯れてるように見えるのです。水をはいてなくてもついつい見にきちまうのですが、今日は残念ながら巧い具合に戯れてるとこは見られず。

西鉄電車大宰府へ。大宰府天満宮へ参詣。菅原道真公を祀る古社です。道真公は神様としては天満自在天神で、天神さまとも呼ばれます。もっと参道が狭かった記憶があるんすが、社の先輩に連れられて来たときは夜だったので、印象が違うのかも。

天神さまは学問・至誠の神様です。私は学問の道に進んでるわけではないので参詣してもしょうがないのですが、どこか頭がいまより良くなりたい、ってのはあったりします。頭が良いというのは知識の量でもなんでもなくて、分析力があることもしくは対処法というか解決の方策を思い付くことで、でもそう簡単にはうまくいかないから人は嫉妬の塊になるんすけど。それができないとできる人に対して嫉妬するからっす。嫉妬はおっかなくて言葉に出さずとも仮想敵を叩いてなんとなく気分はいいんだけど他人に寄りかかったぶんゲスになる。でもなかなかその習性は一度こびりつくと抜けないので、難しいんすが。頭が良いというのはもしかしたら嫉妬を感じずに淡々とかつ妥当な方向へ物事を処理できる人なんじゃないかなあとおもうのだけど、それはそれで難しくて、できればそれができるようになりたいと思いつつ、正直もがいてるので、お参りに来たのです。それと知識というのは身につけるものでもあるんすが、身につけたってそれだけじゃアクセサリじゃねえんだからしょうがいじゃん、みたいなところがあって、それをどうやって他人に説明できるか、もしくは分析力や対処法に生かして使うか、ってのがここ2年ずっと考えてるところなのですが、ようは自分の頭にそれが欠けてるかもしれねえ、という自覚があって、ってのもあります。学問を修めてる身分じゃないので天神さまに来るのはちょっと趣旨がちがうかもなんすが。

でもって天満宮のそばにあるのが九州国立博物館です。ここへも寄りました。写真は入口で

山の中をくりぬいた不思議なトンネルの先に

けっこうな規模で建てられてます。常設展は最上階のみなんすが、かなり興味深いものであったりします。
よく古墳のそばに埴輪等がでてきますがたいていは素焼きのやきものですが、九州の場合石人石馬という加工しやすい阿蘇溶岩を材料にしたものがでてきます。それが素焼き埴輪のルーツなのかどうかはわかりません。石人石馬は磐井の乱を境に消えちまいます。さらに装飾古墳という多色の岩絵の具で埋葬空間内部を色鮮やかに彩ったものがでてきてます。亜鉛もしくはべんがらをつかった朱色がつかわれてるんすが、季節によっては色鮮やかになったりします。ここらへんいまだ解明されてないのですが、九州の独自色のある文化があるということだけはひどくよくわかるようになっています。でもって九州の底流に流れてるのはアジアの中の九州なのかもしれないです。それはよく理解できました。

西鉄電車で福岡市内にもどり、地下鉄を乗り継いで百道というところへ。福岡市博物館です。邪馬台国がどこにあるか、というのは日本史上の謎のひとつですけど、この博物館には江戸時代に福岡のそばの志賀島からでてきた金印があります。それを知って寄ってみたのです金印は3cm四方で厚さ1cmあるかないかの、想像してたものよりひどく小さいものでした。実物をみたとたん、ちょっと呆然としちまったんすが、それは兎も角。でもって現在に至るまでの世界の玄関口としての博多・福岡の役割というのがよく理解できる展示でした。長崎や鹿児島に行った時もそうですが、その地の歴史を知るというのは東京にいると知り得なかったことばかりで、勉強になります。いや、そんなことを勉強してもなんの役に立つかはわかんないんすけども。

百道浜にでて海をしばらく眺めてから中洲川端へ。


7月のはじめから中ごろにかけて博多祇園山笠があります。約半月にわたる長いお祭りです。既にはじまってまして山笠が市内各所に飾られています。

博多祇園山笠というのは、櫛田神社という祗園社を勧請した神社がありましてそこに山笠を奉納する神事ですってかけばいちおう正解なのですが、いちばん有名な神事が追い山ならし(12日午後)と追い山(15日早朝)で、

舁き山というのを褌(山笠の場合は締め込みという)、水法被姿の男たちが大勢で舁きながら(写真は8番上川端流のもの)

櫛田神社の境内に山笠を舁き入れ(これを櫛田入りといいます)清道旗を回って境内を出てタイムを競い、さらに一定コースを(追い山ならし約4キロ、追い山5キロ)を走ってタイムを計測します。江戸期にケンカのあと町同士で舁き山を追い越し・追い越されたの争いからそんなふうになったようで。でもって山のぼせという言葉があるくらい、この時期祇園山笠に熱中する人がでます。博多祇園山笠の由来はいくつかあるようなのですが室町期には原形がすでにあり、江戸期には競うようなスタイルになったようです。いちどうごく追い山を見てみたいと思うんすが、うーん。

舁き山のほかには飾り山というのがあります。櫛田入りをしない、動かさない山笠です。しかしこれもまたけっこう見ごたえがあります。で、毎年作り変えます。写真は14番キャナルシティ博多のもの。福岡ドーム博多駅なども製作してます。いくつか見学しました。

ちなみにキャナルシティ博多というのは工場跡地を再開発したショッピングセンタで、曲線をつかったり無駄な空間があったり、運河としてはなんの役にも立たない水路があったりする、効率を意識してない面白い建物です。
この日は福岡在住の退社した先輩と会食後、福岡に宿泊。
【遡及日誌第二日目】
西鉄電車で久留米まで出てバスで吉野ヶ里へ向かおうとしました。ところが久留米駅を出てしばらくした時点でどんどん天候が荒れてきて、信号待ちをしてるときに雷鳴が聞こえはじめ、もしかして前線の下にいるのかなあ、失敗したかなあと覚悟を決めて現地へ。

雷鳴とどろく中係員の人が走り寄ってきて、雷警報発令中で屋内退避勧告を受け、それに従って屋内のガイダンスセンターでより詳しくにわか勉強をしました。吉野ヶ里には弥生期の前期紀元前3世紀から3世紀に到る600年ほどの、痕跡があります。邪馬台国がここであったかどうかというのはともかくとして魏志倭人伝にでてくる邪馬台国の時代がどんなものかの手掛かりとなるものが出てきているのはどうも確かなようです。立派なガイダンスセンターがあるのはここが国営公園だからで、雷の情報も逐一リアルタイムで教えてもらえました。

わかりにくいかもですが、うっすらと高低差のある台地の上に吉野ヶ里の遺跡群は所在します。ゆえに他より雷が落ちやすかったり。でもって阿蘇の火山灰によるローム層がこの台地の上には残り水田には適さず、戦後ミカン畑になっていて、昭和の終わりには工業団地の造成計画があったんすが運よくというか(開発する側からすれば運悪くなんすが)、直前に回避されました。雷警報から注意報になった時点で入園許可がでたので見学開始。といっても警報になったら避難する場所(あとで必ず迎えに行きますのでそこからは動かないように念押しされました)を5か所ほど教えてもらってですが。

以下、つまんない人にはぜんぜんつまんないかもしれない、遺跡の話です。

集落があったと思われる東側の入り口です。柵→空堀→敵の侵入を防ぐための杭があります。痕跡からどこらへんになにがあったか、というのをなるべく再現していて、防禦もこのようなものであったろう、という想定です。

しばらくいくとさらに柵と空堀があり、その内側に物見やぐらや吉野ヶ里やその近辺を支配していた支配者層が居住していたスペースが有ります。通称南内郭とよばれてます。やぐらの基礎部分をどうしたのかな、と不思議に思って質問したらどうも物見やぐらの下からは栗の木が一本でていて、それを咬ませるように柱をたて、周囲を粘土層の土で固めた形跡があるらしかったり。ちなみに国営公園なので予算がついてて植生に関しても調査がすすんでてシイとかカシ、クヌギはあったそうです(実はそれも質問した)。

支配者層というのはおよそ一部の有力者しか持つことができなかったであろう鉄製品が見つかっていることなどからそう判断してるそうで。

竪穴式住居がどんなものか、あまりよく知らないので入ってみると

内部は全く濡れてません。あたりまえかもなんすが、けっこう頑丈なんすね。さっきまで激しい豪雨だったので、変なところで頑丈さを実感しちまいました。

南内郭の西側には倉庫群の痕跡があります。穀物倉庫や物資保管庫があったようで、市も開かれてたと推測されてます。
南内郭より防禦の固い、二重の堀と柵に守られてる北内郭というのがあります。

この文章の上↑にあるのが外側の、

さらに↑内側に防禦があって、柵が外からみられないようにびっちり並んでます。よほど重要なことがここで執り行われてたと考えられてます。

北内郭内の様子ですが、右は祭殿と思しきものの復元で、会議や祖先の霊を祭る場所があったと考えられています。琴のようなものが出土してて、メロディが人を楽しませてたのか、それとも別の由来のものなのかは謎なんすけど。

いちばん北端にあるのが通称北墳丘墓。手前に拝所があり、その次に柱、その奥に縦長の台形をした盛土があり、この盛土部分から14基ほどの甕棺と、副葬品としてガラス製の管玉や飾銅剣が出土しています。実物はここに無くて佐賀市内の博物館にあります。たぶんやんごとなき方々の墓であろう、という推測がなされてます。甕棺というのは素焼きの甕の形をした土器の棺で死んだ人を体育座りっぽくさせて入れて埋葬してて、北部九州独特のものです。

吉野ヶ里遺跡というのはけっこう広大で、まだ未調査の部分がけっこうあります。そのうちのひとつが南端にある「祭壇」とされてるもの。本格的な調査がまだ行えてません。あと個人的に馬鹿な質問をしたのですが、トイレがわからないらしいのです。排泄物の処理法がいまいちよくわかってなくて、邪馬台国がどこにあるのかと同じで、それだけ謎がまだここにある、ってことなのかもなんすが。

雨がひどくなってきたところで撤収し、久留米経由で柳川へ

柳川はそれほど雨がひどくありませんでした。柳川は江戸期から堀がありそこを舟で下るのが風情があっていいかも、なんて教えられてたのですが、前線通過のあとで水量が増してるのか、どんこ船もありません。とりあえず散策しながら温泉へ。

古くからの温泉ではないのですが柳川には温泉があって、ゆっくり長湯をして、リフレッシュしてきました。

西鉄鹿児島本線を乗り継いでこの日は熊本に宿泊。
【遡及日誌第三日目】
いきあたりばったりもいいところなのですが、市電の路線図をみて水前寺公園

江戸期に熊本を治めていた細川家が三代・80年かけて造った庭園です。東海道53次を模していて、池は琵琶湖を模してて

富士山もあったりします。さらに市電で熊本城へ

で、でかかかったです。ちゃんと見ようとすると1時間はかかります。加藤清正が築城し細川家が改修を重ねてきました。もっとも難攻不落の名城であることが実証されたのは明治になってからです。

いまの天守は戦後に再建されたものです。江戸期のものは西南戦争の開戦3日前に焼け落ちてます。しかし天守閣が焼け落ちてもなおこの城は難攻不落で西南戦争時に薩摩軍がこの城を攻め落とそうするのですができずじまいで、攻めあぐね諦めて主力部隊を田原坂へ進軍しちまいます。難攻不落のこの城が薩摩の手に落ちてたら逆に政府軍も攻めあぐねてたでしょうから西南戦争の結果も違ってたかもなんすが。

本丸御殿は平成になって再建されました。天守閣へ向かう通路の上、石垣と石垣の間に建ってます。

で、本丸御殿の下の石垣と石垣のあいだが本丸御殿へ向かう通路になってまして、俗称暗がり通路というのですが、なんだかちょっと不思議です。たぶん攻めてきたら破却して通せんぼするつもりだったんすかね。ちなみにほんと美形だなー、って人がけっこう城内にたくさんいて、侍や忍者のカッコウをして挨拶をしてくれます。そういうの、流行りなのかも。

いきあたりばったりもいいところなんすが、地図をみてここはと思ったのが漱石が熊本時代に居た家です。

そのひとつが記念館になってます。通称内坪井旧居といい、英国留学や小説を書く前の近代俳句を意識してたころ、熊本にあった五高の英語教師時代の一時期をここで過ごしていました。なお熊本時代の経験をもとにのちに草枕が書かれます。
興味深かったのは英語教師としての漱石が紹介されてたことです。松山時代は逐条解釈的に丁寧に細かく英語を教えてたらしいのですが、熊本時代は細かいところはともかくとして文の意図が読み取れれば良いような・達意がわかればいいような授業をやってたようです。そのかわり辞書をひけばわかるようなことは事前に予習してあることが前提らしくどんどんすすめ質問がしにくい反面、最初から最後まで読ませ、一冊読み通すことの面白さを伝えてた、なんてのを知ると、教師としてはともかく文学者としてはいい先生だったのかもしれません。

細かいところを必要だからってどんどん教え込んでいくのも決して悪くはないとおもうのですが、下手すると教えられたほうは混乱するだけかもしれなくて、ですから辞書をひくことをあたりまえのこととして事前にわからないところをはっきりさせておき授業を受けたほうが良いという考え方は理解できないわけでもないんすけど。もっともそれが英文法とかのマスターにつながるかはわかんないのですが。もしかしたら夏目金之助先生はあれこれ試行錯誤してたのかもっすが。
ちなみに課外授業も自主的にやっててシェイクスピアのオセロを教材にしてたそうで。正直ちょっとどんな授業なのか、興味が湧いたり。

いつもとは違う環境に身を置いて、後ろ髪をちょっとひかれながら脳内をリフレッシュして東京に戻りました。

そうそう、熊本といえばくまモン。営業部長らしいっす。いつかまた、お目にかかりたいもの。