博多のお父さんのことふたたび

書くということをするようになると、たまに余計なことを考えちまうことがあります。
枕草子という清少納言の書いたものがあります。そのなかに雪の降った日に
香炉峰の雪はどうなっているだろうか?」
と質問をされ、中国の詩人白居易の詠んだ歌に出てくる香炉峰に積もった雪を御簾を上げて眺めるという描写を思い出し、清少納言が部屋から見える山を香炉峰に見立てようとおりていた御簾を上げさせた、したら宮様にほめられた、というお話が有ります。高校受験くらいの知識で、だからなんなんだよーというエピソードで、なんでこんなの清少納言は残したの?それからなにを読み取ればいいのか?っていったらてんでわかりません。漢詩の教養があるものだけが通じる会話をしてて「わかる人だけわかる話はいいよねー」という遠回しの自慢しいなのかなあ、教養ってのが知識の褒めあいにしかならないんだなあ、とかいろいろ考えちまいます。なんでこんな他人の自慢しいみたいな話を読まされなくちゃいけないのかとか考えるとひたすらつまんない話なんすが。もし教訓を学ぶとしたら、ことばというのは話し手と聞き手が同じレベルでないと通じない、ということかもしれません。
確信めいたものに変わったのは今年の正月です。博多華丸・博多大吉師匠の漫才ので華丸さん演じる博多のお父さんが一本でもニンジンのフレーズで「一番でも内川、二番でも今宮」と歌いました。(常識からのかすかな逸脱が華丸さんの持ち味なのですが)ホークスを注視してないとわからないことでおそらく笑える人は限られてきます。大吉さんが華丸さんと同じレベルに降りて福岡ローカルではないことをやんわり注意して軌道修正を図るのですが、博多のお父さんに限らず身の回りのことば・自分が知ってることばで相手が知ってるかどうかを問わずに話が面白いと思って話をどんどんすすめある程度ひとりで完結してしまう人というのはいるわけで、それを笑って風刺にしてて唸っちまったのですが、(笑いながらも)これはけっこうやってしまうかもしれないおっかないことだ・話し手と聞き手がかみ合わないとわけわかめになる、と気が付きました。なんのことはない博多のお父さんは俺かもしれないというか(華丸さん演じるお父さんはいつもにくめないのですけども)。
もちろん話し手・聞き手というのと、文章は微妙に違います。でもなんだろ、書き手と話し手は似ていて、弱いっていうか受け取るほうをコントロールできません。なにかを書いたところでそれが伝わるとは限らない。こいつはなにいってるのかわからない・かいてるのかわからない、といわれてしまえばおしまいの、ひどく弱いものだよなあ、などとずるずるとここんところ思考が転がってて「書く」という行為がすごく億劫になってきたりしてます。こんだけずるずるだらだら書いてて、説得力ナッシングですが。