いいひと

「いいひと」というのは人としてほんとは余裕分がないとできないのではないかと思っています。ここのところ疲労が蓄積気味なのですが、地下鉄の中で席を譲ってあげたほうがいい場合では、若干踏ん切りが必要です。ええいめんどくせえ、と思って席を立って別の車両へ行きます。ええいめんどくせえとか踏ん切りなく行動にうつせるのがベストなのですが、余裕がないとできません。こういうことを書いてる時点で、てめえは「いいひと」ではないなあ、などと自覚します。
いわゆる「いいひと」は周囲の欠けてるところがある人の闇を照らします。やさしい人、という場合はそれができない人の闇を照らします。やさしい行動で、無言でなぜいいひとにならないの?・なぜいいひとになる努力をしないの?という脅迫をします。できない理由があったとしてもあまりかえりみられることはありません。いいひとのすることはたいてい善で、問答無用なところがあるからです。
個人的に苦手なのは「いいひと」で知識豊富な人です。知識豊富な人は知識が豊富じゃないひとに親切にも「こういうやり方がある」ということを相手が理解可能かどうかを問わずに提示することがあります。おそらくそれは正しいことなのかもしれないけど、理解を問わないで言う場合はなにを言ってるのかわからないことがあります。この場合、上の事例でいえば言ってることを理解する知識が欠けてることを照らします。厄介なのは親切というのは凶器で、また親切を拒絶する人を悪人にします。だからなけなしのプライドがずたずたになってても言い出しにくいし・消耗します。ときとして親切を受容する余裕がないことすら照らし出します。小さな親切大きなお世話ってのはうまい表現だよなあ、などと感心したことがあります。感心してる場合じゃないかもですが。というかいまさらですが、おれ「いいひと」に敵意むき出しにして書いてる時点で、いいひとではないってことがバレバレですが。
若干ひねくれた考え方・ものの見方をしてるので「いいひと」というのをみると、欠けてるところ・闇を少なからず抱えた人間なので警戒しちまうところがあります。でもって「いいひと」をみてたまにいらつくこともあるんすが、それはああこのひとはいま余裕分があるんだな、という嫉妬のときがあります。その嫉妬をどうやったらうまく処理できるかは正直わからなかったり。
さいきん「いいひと」ってのはなんだろう、と考えさせられることがあったので、つい「いいひと」ではないのに「いいひと」について書いちまったのですが、あってるかどうかは判りません。