テキトー

たぶんどこにでも転がってる話です。ある相談を受けて時間をかけて調査して成立寸前までいったものの、相談の相手方がその詳細を別のところに偶然みせてしまい、なにからなにまでほぼそこにそっくりもっていかれたことがあります。ただ後日談があって、突然やってきて真似たせいか巧くいかなくって途中で頓挫しちまってて、暫らくして相手方から再度相談をうけたもののもうその段階ではいまさらどうこうできるレベルじゃなくなっちまってたのですけど。もってかれた直後はしばらくもやもやしてました。
努力することは良いことだけど、努力しても見返りがないときってやはりあります。ほんと努力したぶん報われる、なんてのは幻想で、現実はシビアだよなーなんてそのときつくづく思ったのですが。誰だって努力を認めてもらいたい報われたいっていう心境はありますし、私も無いわけじゃないです。でも努力だけじゃどうにもならない部分ってあります。努力したぶん、うまくいかずに見返りがないことは精神的に不安定の原因になります。そういうとき、だれかに否定して欲しいのかなー、とおもうのです。あなたは頑張ってるよ、みたいなことですね。麻薬みたいなもので、気は楽になるのです。私はあまりそういうのを欲しがらないほうですけどそれでもいくらか欲しがるときはあります。でもそれが「はしたない」とおもえるので、なるべく自分の中で処理しちまうことがおおいです。


病院の待合室なんかで怪我というか病気というかそういうのを語り合うっていうのは、結果は脇に置いておくとしてひょっとして「頑張ってる自分」を誰かに認めてもらいたいのかなー、と思う部分もあります。それが間違ってるとかいうつもりはないのです。「どうにもならない理不尽なこと」を抱えてるとき、自分の苦痛だけをみているとそれしか見えなくなってしまうので、他人と比較することや、相互に事情を知って頑張りましょうね、なんてエールを送ることに有意義なところはあるんだと認識したこともあります。


ただほんとに自分が狭量だなーとおもうのは、どうも他人の暗に「頑張ってる自分を認めて欲しい」という言葉が欲しいサインを知っててもそのとうりに云えないことがあります。むしろ、他人がそれを欲しててもみせられたらうざいと思えるときがあります。身内は別としてあまり縁のない人がそういうサインを示していても積極的に関わろうなんて気はおきません。自分がいっぱいいっぱいのときはとくにそれがつよいです。もちろん例外はあって「どうにもならない理不尽なもの」に対して頑張ってる人に対しては妙に肩入れしちまうのですけどそうじゃない赤の他人が「しんどさ判ってー」といっても、どうこう思わなくなって来てます。冷血だと正直自分でも思います。
自分で研究してパンケーキを上手く焼けるようになった人のそばでまったくそんなことを研究しなかった人が自分で作った巧くいかなかったパンケーキの出来を見比べてどうして自分は巧く出来ないんだろうとかの、機会均等であったにもかかわらずそれを活用しないでほうけているとかの、不安定の原因を自分で作っておきながらとかの苦痛の訴えや、徳島の山の中で「しんどいー」とか不貞腐れながら周囲に愚痴ってる人を見たとき真夏は暑くてしんどいのがあたり前なのにここまできてなにをいってやがるんだろうと不思議だったのですが、傍からみてたいしたことじゃなさそうなのに他人に自分のしんどさを訴えることで誰かの善意を慰めのようなものを期待する、本人は計算してるのかどうかわからないけどその計算っぽさとかは、生理的にダメだったりします。
こちらには非がない、そして本人が自分で処理すればいいのにそうしてないときの、本人からすると何とかしたくて他人にぶつけるんでしょうけどやり場の無い感情を無造作に投げかけられるのがいやってのに尽きますが、それははしたなく思えるし、出来れば本気で関わりたくない(自分がもしそういう態度をとったときは穴があったら入りたいくらいなんすけど)。でも、たまにそういう場面に遭遇するたびに、しんどいっす。


耐えられる負荷のようなものの量というのは人によって異なるはずで、だから私にとって平気なことでも、他の人にとっては平気じゃないってこともあると思います。私が自分の中で処理できることが他人にとっても同じじゃないってことは理解はできます。
多くの場合親しくない人に雑言を浴びせるわけにもいかないし、深入りもしたくないので、テキトーに流して済ませてるんですが。
テキトーな表情をして内心舌出すことに大人になってだいぶ慣れました。


(これもやり場の無い感情をぶつけることになるのかなーとおもって消したのですが再掲します。一貫性がなくてすいません)