能町さんの問題提起

名前だけは知ってるけどその実詳しくは知らない有名な人、というのに能町さんが居ます。前にも書いたかもしれません。好角家であることは知っていて文章を目にしたことがありますが、実は容貌は知りません。でもどちらかというとマイノリティに属し、その後戸籍も変えていて「オネエ」ではないということはずいぶん前に知っていて、去年能町さんを「オネエ」として扱ったテレビ局に本人が訂正を要求した、ということも知っています。ところが抗議したテレビ局からは謝罪等がないことを今朝の毎日新聞で知りました。
さて、オネエというのはなにかってことですが(毎日新聞でも触れているのですが)もともとは女性の格好をするなど女性のように振る舞いたい男性の同性愛者や、戸籍上は男だけど自らのことを女性であると考えるひと、というようなところでした。男性から女性へ性別の戸籍の変更をした能町さんのような存在にまで含むとは考えにくいのです。ところがけっこう今はテキトーにつかわれていて、能町さんが抗議したのもわからないでもないです。些細なことのように思えるかもしれませんが、これらの流れ、言葉の問題のように見えてけっこう危険なことです。主流の流れからみて異なる存在が居て、異なる存在がこういうものだというふうに主流に属するほうが勝手に定義して、問答無用で勝手に一個人をある枠づけに入れてしまうことってのは(とくにマスコミという社会的に少数派を抑圧することが容易なメディアを扱う存在が、それをやってしまうことは)けっこう怖いのです。差異があるんだけど差異がないようなものとして扱われるというのは人をちゃんと人として見てないのと同じなわけで、それを無意識のうちにやってるとすれば、なんのことはない、人格がないとみなしてるのと同じです。おそらくそれが「差別」の本質的なところのひとつのはずです。
さらに事態がややこしいのは「オネエ」の言葉のメディアにおける意味合いの変化です。能町さんは毎日紙上においてテレビは「オネエ」を(ほかにオカマ、ニューハーフをふくめ)色物扱いしてることを述べて「笑っていい」としてる風潮を批判してるのですが、これはこれでけっこう根深い問題です。属性で笑うというのは、その属性を尊重していないのと同じことだからです。
社会の木鐸であった時期もあったマスコミの一部ですらこのテの問題には鈍感なのですから、なんかこう、多様性のある社会なんてのはおそらく永遠にたどりつけない場所かもしれないな、と思えてくるんすけども。それでも今朝の能町さん・毎日新聞の問題提起をきっかけに意識がちょっとでも変わればいいな、と期待するんすが。ムリかな。
[付記]
超基本的なことを書いておくとゲイっていってもいろんな人がいます。私は裸エプロン以外女装というのはほとんど経験がありません(ついでに書いておくと顔チェキでいちばんちかいのが竹之内豊です)そもそも女性っぽい言葉づかいはぜんぜんできません。おのれの中の女性っぽさ、ってのは排除しようとして生きています。女装する心理もオネエの人の心理もすごく遠い世界です。そういうやつなのでてんで的はずれなことを書いてるかもしれません。しかし、それらの姿でいることが・それらの言葉をつかうことがいちばんしっくりきてるのだろうな、ということだけは理解してるつもりです。