塩ラーメンごま問題もしくは同質性のこと1

以前塩ラーメンごま問題というのを書いたことがあります。「塩ラーメンになぜごまがついているのか」という素朴な疑問です。塩ラーメンになぜごまがついてるかってことを疑問を持ってるときに、「塩ラーメンにはごまが入ってるのがデフォルトなんですよですからそんなこと気にするほうがおかしくない?」というように、その疑問を持つほうがおかしい、っていう方向に話が行くことがあります。塩ラーメンにすら謎があるくらいで世の中には不思議が詰まってるのにそれを不思議に思わないなんてつまんない大人だなーとかつぶやいてみるものの、その言葉はこちらの幼児性の証明でブーメランのように戻ってきちまうのが痛いところです。でもって相互に同質性があれば「それはデフォルトだから」で納得するのかもしれませんが、塩ラーメンになぜごまがついてるのかという疑問を持ってる時点で同質性はないので何の解決にもなっていません。説明になっていないから対話にもなりません。疑問を持ってないほうは「塩ラーメンにごま?」というその疑問は喜劇ですがその疑問を持ってしまったほうはその回答は悲劇です。塩ラーメンとごまにたとえましたが、お笑いの番組でなぜセクシャルマイノリティがあたりまえのように笑われる扱いになってるのか、という疑問でも同じです。それをあたりまえのこととして笑える世の中の多くの人と同質性があればなんら問題はないのかもなんすが、同質性がないのに同質性を要求される場面ではちょっと息苦しいところがあります。
転機の話を引っ張ります。
ずいぶん前に「○○のおもしろさがわからないなんてわからない」というニュアンスの文章をはてなでみてからずっとひっかかってます。なんべんも書いた説題で、それだけ処理するのに時間がかかってます。なぜひっかかるかは単純な話で同質性を要求して「○○のおもしろさがわかんない奴はバカ」になるからです。○○が面白いかどうかは横に置いておくとして、「ああ、おれバカでもいいや」という人間なので発話者とはおそらく同質性はありません。言葉というのは意思疎通の道具なのですが、同質性を要求されて同質性がない人間には、あるのは意思疎通できない絶望だけです。このことを転機にあらためて同質性ということをずっと考えさせられて誰が読むかわからぬ文章はなるべく文章を書く時には同質性がないと意味不明になるような文章にならぬよう気をつけています。できているかどうかは別としてです。作家とかコラムニストになるわけじゃなし、そんなもん気をつけたって何の得にもなりませんが矜持の問題です。
私は相変わらずフェイスブックやツイッタをやってません。やらないのは塩ラーメンにごまがあることを疑問に思わないような同質性を要求されるところだと思ってて、塩ラーメンになぜごまがついてるの?と思っちまうような人間であると自覚してるので怖くて手を出していません。「なにがどういいか」というのを言語化しないままの「いいね」というのがあふれると、それは単なる内輪の同質性の証明にしかならないのではないかと思ってて、居心地悪そうってのもあります。想像と違って行ったら天国かもしれませんが、天国じゃなくても塩ラーメンになぜごまがあるんだろうと思いながらごまをいれていたほうが良いので行く気もありません。
さて、最後に重大な告白をしなければなりません。これだけ塩ラーメン塩ラーメンと書いておきながら恐縮ですが、ほんとは塩ラーメンより醤油ラーメン派です。