孤立を恐れる社会と異質排除

世界の半分にはわかりにくいことを匿名を奇貨として書きます。何度か書いていますが私は小さいころに割礼を受けています。割礼を受けている同級生なんてほぼいませんでした。男子の子供の世界というのは不思議なもので、異質なものをはっきりと異質と指摘します。なので小中高の水泳の着替えの時間がほんとに苦痛でした。そういう体験をすると異質は隠さねばならないと悟ります。私はいま性的少数派ですがいまでも異質であることを自覚しててよほどのことがない限り自発的にはまず言いません、っててめえのことはともかく。

子供に限らないかもしれませんが・大人も同じことをする可能性があるのですが、異質なものを異質と指摘するのは、同質性がある者同士の連帯感を深める効果があります。異質を指摘しながら同質性の確認をしてる複数当事者はまず孤立しません。孤立を恐れる社会である限り、異質なものを指摘する流れもしくは最悪の場合は排除する流れ、というのはなかなか消えないはずです。

滋賀県の弁護士の先生が小学生を集めて「この中に同性愛者がいる」という趣旨のことを云ったという報道を読んで、集団の中には潜在的に少数派が存在するという意図の発言とは理解できます。でも集団内で孤立するかもしれぬ不安を抱えがちな子供であれば大人の言うことには関係なしに、少数派の同性愛者という異質を見つけたら異質を指摘し、場合によっては排除しようとすることで仲間の結束を深めるでしょうし、その空気を察しているはずですから異質を持つ人間は黙ってしまうでしょう。小学生の段階では私は性的少数派ではありませんでしたから小学生で性的少数派を自覚する子供がいるかどうか正直わからぬものの、滋賀県教育委員会や現場の先生や弁護士の先生には、異質を自覚して黙ってしまうかもしれない小学生をなんらかのカタチでフォローしてほしいのですが。でも近江舞子の砂浜で落としたミシン針を探すくらい難しい気が。

小学生に限らず、性的少数派の存在に関して教育現場でどう教えればいいのか、というのは専門外ですからわかりません。解は条件によってはいくつも存在するけど、誰もが納得する正解がなさそうで、すごく難しそうな気がしてならんかったり。