花づくし

休みを三日ほど貰って、息抜きをしていました。
○遡及日誌第一日目
東京から夜行バスとJRを乗り継いで京都府日本海側の舞鶴市へ入り、そこから福井との県境へ。まず最初に向かったのはその県境にある松尾寺という西国の札所です。去年、紀州粉河寺で寺の方とお話させてもらえたときに舞鶴の松尾寺の話があって松尾寺を目指しました。目指しましたっていっても、ほぼ無計画に近いです。

さつきは舞鶴で咲いてたもの。

四国もそうだったのですが、札所ってわりと山の中にあります。ここも山の中腹にあります。修験道の道場でもあったようで、六根清浄、と掛け声だけはかけてました。ほんとに清らかになるのか、執着なんてとれるかわかりません。でも山道が急だと掛け声があろうとなかろうと確かにそのうちなにも考えなくなります。いまさらながら山の中に札所が有る理由ってのが、修行のためなのかも、と想像つきます。
私がずっとかかえてる問題は「手のうちようがない苦しいとき、どうやりすごすか」「目の前にいる人になにかしたいとおもうけど、でもなにもできそうにないときになにができるのか」なんすが、修行したところで答えが出るのかどうかもわかりません。なんにも考えない・無にするってのが、果たして正しいのか、よくはわかりません。わかりませんけど、頭でつらつら考えるより身体を動かすってのは、悪いことではないような気もします。気がするだけで確信があるわけではありません。

麓の駅から小一時間で松尾寺に到着。奈良時代にはあったお寺で、聞けば境内の銀杏は鳥羽天皇が植えたとか、「え?」と言いたくなるよな古寺です。馬頭観音を本尊としています。闇夜を照らし「煩悩や諸悪を食いつくす」観音さまです。煩悩も多いしなー、ってのもあるので最初にここに来ました。でも煩悩を食い尽くしたあとって、凡人にはどういう状態になるのかいまいち想像つきませんが。煩悩が無い、ってどんな感じなんすかね。煩悩が無いのがいいことで煩悩ってあることが悪いことなのか。
なにかを積み上げてきたんだけど、それが何かしらの理由で崩れてしまったとき、私はわりとリカバリしようとなんとかするほうです。でも崩れたものを前に人によってはリカバリを無意味だよ、とか、勝手に論じちまう人も居ます。ほんとに無意味なのかはわかりません。意味があるんじゃないかって咄嗟に思っちまうのですが、それは単に、諦めがわるいっていうか、そこまでの軌跡をなんとか生かしたいって云う煩悩が疼いてるだけかも。崩れたものを前にいままでの積み上げたものを無にしちまうってのが怖いと思ってて、無ということばすら考えることをどこか避けてきました。だから無ってのがわかりません。正直、無ってなんなんすかね。巡礼に名を借りてなんにもない山の中に行くことすら意味を持たせちまう私には、羅漢に逢うても羅漢を殺せそうにないし、無ってのがちょっとまだ理解できそうになかったりします。

もっともなんにもない訳ではなくて、山の中のせいか、八重桜が咲いてましたです。


舞鶴から天橋立へ移動。

天橋立にある知恩寺です。通称、切戸文殊といい、智恵を授ける文殊さんです。私は頭がよいほうではないのでちゃんと参詣してきました。

智恵の輪灯籠です。この智恵の輪灯籠の輪っかを3回くぐれば文殊様の智恵を授かるという言い伝えがあります。ありますが、そもそも衆人環視の中でくぐったら「私は馬鹿です」って看板かかげてるのと同じ効果があるんじゃないかなあ、と。でもって輪っかが結構高いところにあります。実際くぐるのは、三越のライオン像に跨るのと同じくらい大変かもしれません。ちょっとチャレンジする気になれず。
もともと江戸時代には輪の中に明かりがともされ、後ろの運河を行き来する船のしるべになっていたと言われています。龍神さまをここに呼び寄せるため、明かりを灯していたという説もあります(龍神さまを呼んでどうするのか、ってのは謎ですが)。で、運河にかかる赤い橋は廻旋橋で、いまでも船が通るたびに90度旋回するのだとか。

天橋立を渡ります。砂浜の上に松林が一筋続いてます。

天橋立和泉式部とか蕪村とか、いろんな人が和歌や俳句を詠んでます。わからんでもないなー、と。

天橋立の先に何があるか、というと、神社があります。

丹後一の宮元伊勢籠神社なんすけどあまりにも古い神社です。元伊勢っていうのは伊勢神宮に居る神様の天照皇大神天橋立にいたからです。で、伊勢に天照皇大神が移ったあとに元伊勢って名前になりました。天橋立はもともとはこの神社の境内かつ参道です。そもそも天橋立って言う地名は神代の昔に天にいたイザナギがこの丹後に居たイザナミのもとに通うために梯子を架けていたんすが、それが倒れて天橋立になったという説もあります。
この日は、この籠神社の近隣の宿に宿泊。
○遡及日誌第二日目
朝早くおきて、次の札所、成相寺を目指します。

籠神社のそばからケーブルがでてるのですが、なんとなく使う気になれず700段以上の階段を登りはじめます。

途中、傘松公園という場所があります。これだけあがると橋立が龍にも見えますね。天橋立名物の股のぞきの場所です。ここからの景色が股の間にあるものに似てる、ってなわけではありません。仁王立ちしてかがんで、股の間から景色を眺めるのですが、人って下を向くと頭に血が行きますから、血があがった頭でもって股のあいだの景色をみると天橋立が天に昇る橋のように錯覚する、それが面白い、ってな場所らしいです。念のためやってみましたが、正直わかるようなわからんような。

さらに歩いて、籠神社から小一時間ほどで成相寺へ到着。

山の上の寺なんすが、道すがら、ちょうどシャクナゲと、

ヤマブキが満開でした。花見をしにきたわけじゃないんすけど、ラッキーだったかも。

見慣れない花を撮影。うつきなんだろな、ってのは推測ついたのですが、東京に帰って調べて知った「たにうつぎ」っていう花です。日本海側にはよく咲いてるようで。現地では源○物語にでてくるよ、っていわれたのですが(ここらへんさらっとでてくる京都ってこわいっす)、むくつけき東男はそこまではわからずじまい。

水面がきれい過ぎてちょっと怖いくらいの池。


勤行の後しばらく休憩し、山を降りて、次の目的地・三田へ向かいます。
特急へ乗り換える際に見かけた、舞鶴天橋立周辺を走ってる北近畿タンゴ鉄道の車両なんすが

どうも浦島太郎の伝説がこのあたりにあるらしかったり。さらに路線図を見てると大江山なんてのもありました。出世した金太郎(坂田金時)が鬼退治に来たところっす。丹後を脱出する段になって、ひょっとしたら、丹後って興味深いところで、実は宝の山の前を素通りしてきちまったのかな、っていう意識が頭の中をよぎりました。また来ることができるといいんすけど。今度来るときはちゃんと計画を立てたいところ。


三田からバスに乗り、尼寺という集落から30分くらいかけて花山院というところへ。

山の中にあります。西国の札所の巡拝を事実上定着させたのが花山法皇でここはその菩提寺です。花山天皇は19のときに政争に巻き込まれほぼ騙されるかたちで出家し、そののち西国の札所を廻ったのちにこの地に庵を組んで41で死去しています。
うらみってものが花山法皇に有ったのかどうか正直わかりません。でもその生涯を考えると有ったんじゃないかなあ、と思います。それをどうやって乗り越えたのか・落ち着かせたのか・無にすることができたのかっていうのが気になってました。やはり方法としては、仏を信じ祈るってことなのかなあ、とか、雨の中で傘を流れる水を見てて執着のようなものを月日をかけて流すってこともその方法なのかなあ、なんてこと現地で考えてました。
うらみの感情ってのは体力使うしできれば陥りたくない心境なんすが、やはり凡人なのでそちらにたまに落ちちまうことがあります。心惑わずに祈ることだけできるだろうか、執着を流すことができるだろうか、ことばにすると簡単だけど、いまの私にはなんだか難しそうな気がするのですけども。ただ、無にすることはできないけど、なにかをかわりにする・代替手段で埋めるってことで、それに近いことをすることはできそうな気はしないでもないのですが。


雨がひどくなってきたので計画を変更して三田から神戸電鉄有馬温泉へ移動。

こういうまっすぐ向こうが見渡せない路ってのがけっこう好きだったり。日頃の疲れをとるべくちょっと長湯。有馬には市営のそこそこの値段で入浴可能なところがあります。

足湯の写真です。有馬は鉄のおおい赤いお湯です。道後のように泳ぐことはできません。いちばん最初にきて湯船にこのお湯があったときは正直びっくりしました。


この日は(有馬に泊まったと見栄を張りたいところですが)大阪に宿泊。
○遡及日誌第三日目
疲労度がかなりあってゆっくり起きるつもりだったのですが、悲しいかな仕事してるときと同じ時間に目が覚めちまいました。中之島へ。

(ペットボトルの)紅茶を片手に優雅にバラ園を見学
(以下、メモがどこかへ消えたので品種は怪しいです)

たぶんカクテル

記憶に間違いなければホワイトクリスマス

アンクルウオータだったか

たしか熱情


大阪で所用を済ませたあと、京阪電車で山科へ移動

道に迷いながら花山天皇不本意ながら剃髪した寺である元慶寺へ。ウグイスが啼き、花が咲く住宅地の中の小さな寺です。勤行ののち、しばらく不条理をどうやって受け入れたのかとか、不条理を受け入れたあとにどうやってけりをつけたのかとか、無念とか悔しさとか寂しさを紛らわすにはどうしたのかとか、受け入れるまでは自然に溶け込んでいきてたのかなあとか、ゲスな考えだけど無念とか悔しさを紛らわすために別の道へすすんだのかなあ、とか、またまとまらないことを考えはじめちまい、考えてもきりがなさそうなので歩きはじめます。
山科と京都のあいだには東山があります。で、そこに蹴上という場所があります。

蹴上周辺の琵琶湖疏水です。明治時代に琵琶湖の水を京都まで持ってくる疎水の工事をしました。で、いまでも琵琶湖の水を疎水を使って京都に持ってきてます。観光客がよく歩く哲学の道の水も疎水の水で、もともとは琵琶湖の水です。でもって、戦後直後まで実は疎水をつかって船をうかべて水運を行ってました。で、蹴上から鴨川べりまではけっこうな勾配になるので船を台車に載せて上げ下げしてました。インクラインといいます。

インクラインの線路あとなんすが、真ん中に線路があるのわかりますかね。勾配をつかって水力発電も明治から行われてます。その発電所関西電力が今でも使用中です。

台車と船。蹴上から降りてゆくと南禅寺が近いですが、

その南禅寺水路閣がありますけど、これ、疎水が流れてるわけっす。

さらにあるいて永観堂へ。ここには「みかえり阿弥陀」という微笑みながら振り返る阿弥陀さまが居ます。で、拝観してきたのですが、こともあろうにここで数珠を無くしました。四国の巡拝で使ったのは88番で納め、かわりのを四国で買い求めてたのですが、それを阿弥陀さまの居る本堂から山門までのあいだにいつのまにか紛失しちまったのです。よく探したのですが、やはりありません。寺の人に言われたのですが、役目を終えて阿弥陀さまの許によばれたのかなあ、と思うことに。


新幹線に乗る前、大徳寺門前で見つけた看板↓

とっさには何を書いてるのかわかりませんでした。崩し字が読めないので本気でわからなかったのです。たぶん、鎌に碗で「かまわん」。でもってひらがなっぽいのは「はいれ」で、営業中なんだろな、と。
ああそうか、わからんものに遭遇したらとりあえず判るところからはっきりさせていけばいいのかなあ、なんてことをいちばん最後に思い知ったのですが、なんだか当たり前すぎるかもしれません。でも、俺、それをたまに忘れちまうんすよね。


で、判るところからはっきりさせておくと、この時期の近畿地方は花がきれいでしたです。